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短篇小説 晩景の花火(3)

 その日、裕は、新宿に出かけた。歌舞伎町では、様々な飲食店がひしめき合っていた。
 雇ってくれないかと、店々を廻った。しかし、けんもほろろに追い出された。子供の来るところではないとも言われた。
 塞ぎこむ姿で今夜も公園で過ごそうと思い、疲れた体をベンチに横たえた。そこへ、和服姿の女性が、裕に声をかけてきた。
 髪は綺麗にセットされ、きちんと化粧をした、端麗な容姿の人だった。
 裕はその女性の年齢を、三十歳前後かと思った。
「どうしたの。どこから来たの? 今夜泊るところがあるの?」矢継ぎ早に聞かれた。仕事を探して終日彷徨っていたが、今日も雇ってくれるところがなく、この公園で一晩過ごそうと思っていると答えると、
「うちのお店に来ない?」と、言いながら、すたすたと裕の前を歩きだした。
 裕は、戸惑ったが、その女性の後をついていった。
 新宿区役所の通りにその店はあった。店内に入っていくと、
「ママ、今日は早いご出勤ですね」と、若い女性が、声をかけた。
「あれ? その子、どうしたの? ママの子?」と、その女性は冗談を言い、笑い出した。その笑い声を聞いた他の女性が、裕とママのそばに寄ってきた。
「ママ、おはようございます。その子は?」
「うん、そこの公園で拾ってきたの」と、悪びれもせず、話した。そして、裕に向かって、
「その奥で休んでいて」と言って、店内の奥を指さした。
 
 この店は、『沙友里』という会員制クラブだった。店内は広く、華やいだ雰囲気だった。
 こういう場所に来るのは勿論初めての裕だった。何か夢の中にいるような気持だった。
 和服姿のその女性は、ここのママらしい。それにしても、どうして自分をここまで連れて来たのか、裕は不思議でならなかった。
 あとで判ったことだが、ママの名前はやまとさゆりといった。四十歳を少しでた年齢だった。
 今夜は公園で過ごそうと思っていた裕には、屋根のある場所がありがたかった。
 店の奥まったトイレの傍に扉があり、そこに入ると二人の若い女性が、丁度着替えをしているところだった。
 その一人がキャーと目を丸くした。裕は一瞬ためらった。
 さゆりが、
「この子は今日から、うちの従業員だから、頼むね」と、着替えていた二人の女性に諭すように話した。
 裕は、自分の意志とは関係なく、そのクラブで採用されることになった。
 後日知ったことだが、今までいた男性の従業員が前日、辞めてしまったため、ママが公園にいた裕を連れてきたのだった。 
 狭い部屋の中で、裕は椅子に座り、出入りしていた女性に、笑顔を振りまいていた。
 救われたと、裕は心の底から思った。
 この広い東京で、自分ひとりの存在が、いかに小さいものか思い知った裕は、途方に暮れていたのだった。
 その自分をあの女性、ママと呼ばれている さゆり に出会い、そしてこの店に連れてこられた。裕の詳しい出自も聞かず、田舎から出てきた若造をいとも簡単にこの店に引っ張ってきた。
 これからの成り行きに、裕は不安になったが、どうにかなるだろうと開き直った。
 それにしても、のこのことついてくるとは、と裕は苦笑いした。このような裕の性格が、後の経験と相まって、ツキを呼ぶことになろうとは、その時点では考えも及ばぬことだった。
 裕は、店が閉まるまで、トイレの傍の狭い部屋で過ごした。華やいだ声が店内から聞こえていた。
 午前零時過ぎに最後の客が帰った。
 ママのさゆりが、扉をノックして狭い部屋に入ってきた。裕はウトウトとしていた。さゆりが、
「あなたの名前を教えて?」と裕に尋ねた。ビックリした裕は、眠気眼をさゆりに向けながら、
「はい、細田裕です」
「ヒロシ君、いままで狭い部屋で申し訳なかったね。疲れた?」
「疲れました」
「正直な子ね。ひとみちゃん! ヒロシ君にコーラ出してやって」と、帰り支度をしていたひとみにコーラを持ってくるように言った。
「はい、ママ」とひとみは素直に応じた。
 ホールに出てきた裕は、ボックス席に座ると、氷の入ったグラスと栓を抜いた瓶入りのコーラを持ったひろみがやってきた。
 着替え中に、部屋に入ったことを怒っているのか、ひとみはグラスとコーラを裕の前のテーブルに不愛想において、特に何も言うことなく去っていった。
 裕は瓶入りのコーラを自分でグラスに注ぐと、おいしそうにそれを飲んだ。のどが渇いていた。そのボックス席の向かいの席にママが座った。先ほどまで、客が座って華やいでいた空気が漂っていた。
「ヒロシは漢字で、どう描くの?」
「裕次郎の裕です」というと、ママは「いい名前ね」と言った。
 ママのさゆりはひとみに、一枚の用紙を持ってくるよう指示した。裕はその用紙に、出身地、最終学歴、名前を記入した。
 裕は、さゆりに聞いた。
「ひとつ聞いていいですか?」
「なぁに?」
「どうして僕を?」
 さゆりは、裕の気持ちを察して、
「君を一目見て、何か持っていると感じたから。つまり私の直感ね」と答えた。
「さあ、これで採用ね。今晩泊るところあるの?」
「いいえ、ありません」
「じゃ、今晩、うちに来て泊りなさい」と言ってくれた。裕は、内心やったと右手の拳を強く握りしめた。
 タクシーに乗った。タクシーの中でさゆりは、自宅マンションに着くまで、喋り通しだった。
 

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