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ゴメが啼くとき(連載19)

 そのような、おぞましい事件があって、
 昭和二十四年も暮れのある日の昼頃、文江は幌泉の大和寿しに顔を出した。
 十五歳から十七歳まで二年間奉公した思い出が詰まった大和寿しだった。

  文江が、縄のれんを潜り、店の戸を開けてのぞくと、
「あら、文江ちゃん、さあ入って」と、店の中のおかみさんが声を掛けた。
 店のカウンターは、ほぼほぼ埋まっている。
 漁から帰ってきた漁師が、刺身をアテに、一杯やっている。
 その中に、文江が奉公していたころ一度見掛けた男が、カウンターの奥に座り、真っ赤な顔をして、ビールを飲んでいた。あまり強いほうではないらしい。
 文江を見掛けると、にこやかな笑顔を向けた。
 文江の年は二十、それよりも二歳ほど若く見えた。ハンサム男は昭和元年生まれの二十三歳だった。
 文江は挨拶してすぐ歌別に戻るつもりだったが、店の大将がその男の隣の空いている席を勧め、座るよう促した。意外とハンサムな男だと思った。

「文江ちゃん、今日は好きなだけ寿しを摘まんでね」と大将が言ってくれた。
「おじちゃん、そしたら最初にイカもらおうかな」文江は嬉しそうに注文した。
 昼時は過ぎていたが、文江はまだ昼ご飯をとっていなかったので、腹ペコだった。しかしパクパク食べてしまったらと遠慮した表情をした。
 文江は、お茶を頼んだ。
 大将は、
「かあさん! アガリ! ところで昼ごはん、まだだろう」と微笑みながら文江に聞いた。
「はい」
「じゃ、たくさん食べて。気合を入れて握るぞ」と言いながら、パンと両手を叩いた。
 隣の席に座って一人で酒を飲んでいるハンサム男は、ちらちらと文江の方をうかがっては、笑顔で刺身をつまんでいる。

 文江の前には、次から次と寿司が載せられる。
 美味しい。
 お茶を啜りながら喉に流し込む。幸せな気分になった。
「一杯どう?」とハンサム男が、文江にビール瓶を傾けてきた。
「いいえ...…。飲めないもんで。ありがとうございます」
 男は、ビールを自分のコップに注ぎながら、
「おめえの名前は確か文江ちゃんだったよな」
「はい、どうして」
「以前、お袋とこの店に来た時、女将さんがおめえを呼んでいたから」
「もう二年も経つのによく覚えていましたね」
「はあ、気になっていたもんだから」
 それを聞いた文江は、顔を赤らめた。
「俺のお袋は様似で、小さな飲み屋をやっていてね。たまに、俺の様子を見に来るのさ。男まさりのお袋でね」
 すると、大将が口をはさんだ。
「勇さんのお袋さんは、兎に角、凄い人だな。飲んべえ同士の喧嘩が始まると、大立ち回りをして、外におん出すそうだ」
「お袋は気が強いが、俺は気が弱い」と勇は赤い顔を下に向けた。
 文江は、この人は正直な人だと思った。
「文江ちゃん、ほれ、沢山食ってね」と女将さんが声を掛ける。

 勇は神田という姓だ。神田勇、いま、幌泉の鰊場で働いているという。
 文江は、二時間程大和寿しにいて、歌別に帰った。

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