短篇小説 晩景の花火(23)完
裕が長岡から東京に戻った二日後、彼は遂に風邪を引き、寝込んでしまった。
裕は一日中布団の中で養生した。今までの疲れが溜まっていたのだろう。
軽い食事をしたが食欲が無い。その後布団に入り直ぐ寝息を立てたようだ。昼前には起き上がり、重湯と梅干を食し、また布団の中に滑り込んだ。
そして、またまどろむ。そのうち寝入ってしまった。気が付いたらとっくに日が落ちていた。
残った重湯を食べ、風邪薬を飲み、また布団に入る。次の日の朝までぐっすりと眠った。
その後も裕の体調が優れなかった。裕は一人の生活には何かと不便さを感じはじめた。結婚しようかとも時々思う。しかし、その気になれないのだった。
本来、裕は人間嫌いかもしれない。いや奥手なのだろうか。小さい時は人見知りが酷かったようだ。その性格は変わらないが、仕事で様々な人に揉まれて、いままで生きてきた。これからも自分らしく、飾ることなく、愚直に生きることが自分に合った生き方だと思う裕だった。
*
二〇二三年(令和五年)十一月、羽田から飛行機で宮崎空港に降り立ち、齢七十一になる裕は、晩秋の京町温泉に来ていた。
昨晩は、過去にどこかで会ったような気がした男と、露天風呂で遭遇した。しかしどこで会ったのか一晩考えても思い出せなかった。その男は裕と同じ年代のようだ。入れ墨をしていた。その晩記憶を巡らしたが、睡魔に勝てず、寝入ってしまった。
次の日、裕は朝食後、旅館のロビーに行き、新聞受けから新聞を取出し、ソファに身を横たえた。
部屋に戻ろうとしたその時、女将から声がかかった。
「お客様、昨夜はゆっくりできましたでしょうか?」
「はい、露天風呂がよかった。おかげでゆっくりできました」
「それは、よろしゅうございました」と微笑んだ。
「ところで女将、昨夜風呂であった入れ墨の男性は、毎日ここに来るのですか?」と裕は思い切って聞いてみた。
「はい、あの方は殆ど毎日、お風呂に浸かりにいらっしゃいますよ」
「ありがとう」と言って、裕は部屋に戻った。
裕は、その日、終日部屋で過ごした。
夕食の前、裕は風呂場に行った。露天湯に入ると、その男がいた。そして裕の顔をみた。裕は軽く会釈を返した。
夕食まで時間があった。裕はロビーのソファに座った。その男も手拭いで顔を拭きながら、裕の座っているソファの向かいのソファに座った。
「どちらから来た?」と突然その男が話しかけてきた。
「東京は歌舞伎町です」
「遠いところからよく来たな」
「はい、昔来たことがあるので。ここの温泉に惚れましてね」
「俺も昔は歌舞伎町で粋がっていたな」
「僕は歌舞伎町で仕事をしているので」と、そう言ったとたん、裕は一瞬、はっとした。思い出したのだ。
裕の脳裏に、宮崎旅行の際、空港で見かけたやせ型の目の鋭い男、また、さゆりと一緒にえびの警察署で見た事件調書の中の写真。加害者の写真だった。写真の男がいま目の前にいる。四十年後の顔だった。裕は思い切って、単刀直入に聞いた。
「失礼ですが、あなたは四十年前の事件、カサブランカの橋田さんを殺めた人ですか」
その男は、一瞬驚きと苦虫をかみ潰したような表情に変わった。そして、
「今更どうしてそういうことを俺に聞くのだ!」と大声を出した。裕はその声に一瞬怯んだが、勇気を出して、
「実は、僕はその橋田さんにお世話になったので、聞いてみたのです」
その男は、遠くを見つめながら、
「あれから、刑務所で服役した。二十年ほど前に出所して、この町で暮らしている。悪いことをしたと今でも思っている」と言って下を向いた。
その時、裕はその男の改悛の情を見逃さなかった。
男は話を続けた。
「いまは組を脱会して、毎日ここの温泉に浸かるのを生きがいにしている」と言った。裕はそれ以上そのことについて話をしなかった。その男も同じく話さなかった。暫くお互い、無言の時が過ぎた。そして男は、
「ところであんた、いつまでいる?」と裕に聞いた。
「明日、東京に戻ります」
「そうか、歌舞伎町も変わっただろうな」
・・・・また二人に無言の時間が過ぎた。
裕の胸の内から、いままでの澱が、スーと消えて行った。
同時に、この男によって、何物にも代えがたい橋田の命が奪われてしまったのだ。その罪はぜったい許せないと、裕は強く思った。
裕は帰りの飛行機から眼下を眺め、もう京町温泉に来ることはないだろうと感じた。
橋田とさゆりの二人の微笑んでいる姿が、窓外の雲と一緒にながれていった。
東京に戻った裕は、その一週間後、和さゆりと橋田紀夫の墓前に報告をした。
自分は無謀にも長岡から一人で東京に出て、様々な人に出会い、助けられ、毀誉褒貶の生きざまだった。そして、いままでの雲霧を一掃し、青天白日の境地に至ることを強く決意した。
ある日の夕方、裕は東郷不動産から歌舞伎町に、自分で運転する車でむかった。
日中、風が強く、晴れわたった夕暮れの空が、綺麗だった。
薄っすらと雪化粧した富士山が、物怖じすることなく、凛とした姿で微笑んでいた。
車の運転席から眼を凝らすと、晩景の歌舞伎町の光が、長岡の明滅の花火と重なった。
【了】