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短篇小説(連載)忘却の文治(5)

 文治は新潟から高速フェリーのジェットフォイルで佐渡に渡った。そのフェリーは船体を海面に浮上させながら走る。
 三・五メートルの荒波でも時速八十キロメートルのスピードが出るらしい。
 新潟港から佐渡島の両津港までは一時間ほどの船旅である。片道料金は七千五十円だった。
 新潟港十四時四十分に出航して両津港に着くのが十五時五十分前の予定だ。
 その日は、土曜日のせいもあり、乗客はほぼ満席だった。
 新潟を出航して三十分ほど経ったとき、文治から隣のその女性に何気なく声を掛けた。
「一人旅ですか?」
 女性は、文治の方を見つめてにっこり微笑んだ。文治はこの年になっても、男である。その女性のあまりの美しさに、ドキリと心が動いた。文治は女性の言葉を待った。
「はい、一人旅ですのよ」と、普通では感じ取れない多少訛りのある言葉で答えた。文治にはその訛りが薄っすら判った。しかし、どこの訛りか判らなかった。
「観光ですか?」と文治が投げかけた言葉に、一瞬戸惑いを感じたのか、
「気ままな旅・・」と言って、微笑んだ。
 文治は年甲斐もなく、胸のときめきを感じた。
 その女性の年は、四十後半に見えた。
 
 出航して五十分ほどが経ったとき、急に船のスピードが落ちた。そしてエンジン音がしなくなった。周りの乗客が、騒ぎだした。
 その女性が、「どうなったのでしょう?」と文治に話しかけた。文治は、
「何かトラブルがあったのかな? 大きな魚かクジラでもぶつかったのかな?」と不安げに応えた。

 その後、「安全点検をしています」と、船内アナウンスがあった。しかし、一時間経っても、船は海面をさまよっていた。船のアナウンスで、エンジントラブルを起こしたらしい。オイル漏れで、舵が効かなくなったらしい。
 三時間後、海上保安部の巡視船が、フェリーに近付いてきた。天気は良いのだが、波が高い。波がしけていて船の揺れが酷く、乗客のあちこちで、エチケット袋を口に当て、嘔吐する人が散見された。
 文治は船酔いは無縁のようで、大丈夫だった。しかし、隣に座った女性は、前のシートの背からエチケット袋を取り出し、口を覆って嘔吐しだした。顔面蒼白である。文治は、苦しそうなその女性を見かねて、
「背中をさすりましょうか?」と言った。その女性は、首を縦に振った。
 文治は背中をさすりながら、自分のエチケット袋を、彼女に渡し、ポケットに忍ばせていたティッシュを彼女に渡した。その女性は、苦しそうな素振りをみせ、文治を見つめた。その表情に文治は、はっとした。彼女の苦悶の表情が、あまりにも美しかったからだ。

 船内放送は、同じ内容を繰り返していた。フェリーは日本海をあてもなくさまよっている。
 巡視船のほかに一艘のタグボートも近付いてきた。ロープを使ってえい航を試みるが、潮流と強風の影響で、難航した。既に十時間は経っていた。しかし、乗客は至って冷静で、騒ぎ出す人は殆どいなかった。途中、パンや水のペットボトルが配られた。
 
 日付が変わって、日曜日の早朝の四時ごろ、やっと佐渡の両津港に到着した。
 桟橋を歩いていても、足の運びが覚束ない。ふらつきながら二日酔いの千鳥足のように歩いた。
 とりあえず船会社で用意した宿泊施設に移動した。もうすでに朝の五時になる。
 公民館のような施設の大部屋で午前中雑魚寝した。
 文治はウトウトしただけであった。
 その日の昼頃、弁当が配られた。それを食べおえてゆっくりしていると、船の中で隣の席だった女性が、文治の傍に近づき、
「大変お世話になりました」と文治に頭を下げた。
「いやいや、具合はどうですか?」
「だいぶ良くなりました。ありがとうございました」
「全国的に大きなニュースになっているようですね」と文治が言うと、
「私も、ここのテレビで見ました。船から桟橋に渡る姿が映っていましたね」とその女性が、一瞬、映されることが嫌な素振りをしたのだった。文治はそれを見逃さなかった。
 何か事情があるのでは? と思いながらも文治は、その女性をみつめた。

 佐渡と謂えば、金山、トキ、柿、能舞台、鬼太鼓、たらい舟体験などで有名だ。文治は金山、たらい舟体験やコウノトリを見ておこうと事前に計画していた。
 

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