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流浪(wandering roaming)
僕は、北海道襟裳岬の近くの白浜(フンコツ)という黄金道路で生れました。
当時はランプ生活でした。小学校一年の二学期までいました。
その後、親の事情で炭鉱の街、夕張に引っ越しました。
僕は、7年半ほど襟裳で生きていたことになります。小さい頃の記憶は、七十歳半ばになるいまでも鮮明に覚えています。
荒々しい海、強い風、ときに人間を寄せ付けない自然の猛威等々。
襟裳の人々は、寡黙で大人しく、じっと自然と向き合っていました。
夕張での生活は、いまとなっては殆ど覚えていないのです。多感な年代だったはずですが、正直細かいことは私の記憶から流れこぼれてしまったようです。楽しい思い出がなかったせいなのかどうかは、いまだに分かりません。
僕にとって失われた十一年半だったのかもしれません。
中学・高校と陸上部でした。走りに走りました。毎日走っていました。
走ることによって、基礎体力、忍耐力が身に着いたように感じます。
高校卒業と同時に、津軽海峡を渡り、茨城県日立市へ。なぜかしら、北海道から本州(内地)へ(新天地へ)行きたかった。若かった僕は、大げさに申しまして、自己の可能性を確かめたかったのかもしれない。
昼は日立製作所で働き、夜学へ通いました。
そのころ、酒と煙草を覚えました。
就職は、東京港区の青山にある会社でした。
しかし入社後、なぜか大阪支店勤務となりました。茨城と茨木を会社が間違えたのではと、当時は思いました。
大阪は東京と違い、泥臭く、かっこつけることもなく、僕が好きな街でした。
三年ほどで、東京に転勤になりました。当時お付き合いしていた女性がいましたが、僕の不甲斐なさもあり、東京転勤の前に別れました。
その後、東京の女性と結婚。横浜鶴見の社宅に住みました。
その社宅に二年ほどいたでしょうか。今度は北海道札幌に転勤となりました。会社では僕が北海道出身だということで、決定したようです。
札幌での仕事は、営業・現場と一人で何役もこなしました。
三年が経とうとした頃、また東京に転勤。住まいは横浜の青葉区(当時は緑区)の社宅扱いのマンションに妻と二人で生活。その後、近くのマンションの部屋を購入。日本がバブル経済に沸き立っていたころでした。
しかし、その後、また札幌転勤。当時の支店長が癌のためでした。
支店長の葬儀の日、僕に支店長の辞令がありました。
支店の売り上げのノルマが、僕の両肩にずっしりと覆いかぶさりました。
救いだったのは、支店の人たちは優秀で、助かりました。
三年ほど経ったとき、突如、東京転勤。
拓銀が破産した翌年札幌に行き、苦労して支店を軌道に乗せた矢先でした。
定年で、子会社に転籍。そこも辞め、横浜のマンションを売り払い、現在東京在住です。
結婚して、九回引っ越しをしたことになります。途中のことは端折りますが、よくもまあ、さまざまなところに行ったものだと。
まさにジプシー生活でした。
もう、引っ越しはしたくありません。
もう流浪はごめんです!
了