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短篇小説(連載)星堕ちる⑰完
土屋次郎は妻のツネより早く、平成二十年に旅立った。享年八十二歳であった。
余りにも乱れた人生だった。どれほど家族に迷惑をかけたか。身勝手な人だった。若いころは教員になりたかった。しかし叶わなかった。その思いは長男の清一に引き継がれた。次男の清二は養子に行った。
次郎の最期が近づいたとき、彼の脳裏には、走馬灯のように今世の彼の生きてきた出来事が、ぐるぐる廻っていた。また生まれ変わっても同じような生きざまを繰り返すのだろうか......…。
(ツネ、申し訳なかった。どんなに勝手気ままに生きてきたのか。お前に迷惑を掛けっぱなしだった。自分と離縁することもできたはずだが、お前は耐えた。そして、子供たちを世間並みに育ててくれた)
次郎は数日あがいていた。死ぬに死にきれない断末魔の苦しみのようにみえた。
ツネ、そして長女の深江、次女の光江が次郎の最期を看取った。
息を引き取った次郎の眼は大きく見開いたままであった。
光江が手で、そっと開いた眼を閉じた。しかしすぐ開いてしまう。二三度それを繰り返した。そして次郎の目が閉じた。
今世の次郎の人生は終わった。
土屋ツネは、平成三十年の五月に亡くなった。享年九十一歳だった。
次郎の浮気に気づいてからのツネは、心を強く持とうと自分に言い聞かせた。まして稼がない男と一緒になったのも自分の業だと思うようになった。
そうならばその業と闘ってやろう、負けてなるものかと歯を食いしばり生き抜いた。そして四人の子供を育て上げたのだった。
次郎が死んでからの十年間を、自分の波乱万丈の人生を取り戻すような生き方だった。
次郎はツネの生き方を一変させた。しかしツネは一切次郎に対する恨みを子供たちに話すことは無かった。彼女は自分の業と闘い、ついに勝ったのだ。そしていつも笑顔を絶やさない柔和な表情で過ごした。ツネは人生の辛さを突き抜けたのだろうか。そう思える十年間の生き方だった。
次女光江の夫の三樹夫を可愛がった。ツネは日頃、光江に言っていた。
「お前は、良い旦那を持ったな。決して私と同じ道を歩んではならないよ。女は強くなければならないよ。私は今が一番幸せだよ」
彼女は、自分の業を子供たちに継がせることはしなかった。
亡くなる三日前、病院に見舞った深江・光江・三樹夫に、ツネは目を瞑りながら、ニコニコしていた。あの修善寺での事を思い出していたのか、言葉を発した。両腕は空中をさまよっていた。
「修善寺は良いところよ、次郎さん」
「次郎さん、修善寺川でアマゴを釣ろうよ」そしてほどなく、
「あの美味しそうな饅頭食べたいな」とボソッと言った。
そして最後に、「ごめんね」と呟いたように傍にいた三人には聞こえた。
そのごめんね、の意味は? と考えながら光江は母の表情をじっと見つめていた。
ツネは乙女の頃の、可憐な顔をして亡くなった。
閉じた目からは、星が跳ね、スーと堕ちた。
ツネは、あの頃に帰っていった。
【了】