見出し画像

短篇小説 晩景の花火(7)

 裕は、橋田の顔を立てて会うことにした。ママのさゆりに断りを入れ、一週間後の水曜日の夜、橋田のスナックで東郷という女性と面会することになった。
 十三坪ほどの小さな店である。新宿歌舞伎町の大通りから右手の路地を入って三軒目の雑居ビルの四階に橋田の経営するスナック「カサブランカ」はある。
 裕は、夜八時ごろ、その店に行った。
 入口を入って左手にカウンターがあり、椅子が五脚、通路を挟んで右側にはテーブル席がある。手前から三つのテーブルには、客で埋まっていた。
  カウンター内にいたマスターの橋田が、裕に声を掛けた。
「いらっしゃい、裕君そこのカウンターに腰かけて」
 裕は、一番手前のカウンター席に座った。マスターは忙しそうに客の飲み物を作りながら、
「友ちゃん、裕君におしぼり差し上げて」と、若い女性従業員に言った。
「はい、どうぞ。マスターから聞いています。後ほど東郷さんが来ますよ」と明るく弾んだ声で、裕に話した。
 テーブル席の八人ほどは、団体客のようで、それから三十分ほどで帰って行った。
 吉田友子は、テーブルを片付けながら、裕の方を見て、
「東郷さんはもう少しで来ますよ」と微笑んだ。
 裕は、カウンター内の橋田を視た。食器を洗っていた橋田は、
「裕君、もう少し待っていてや」と言って、氷の入ったウーロン茶を出してくれた。
 裕は、不安だった。
 その東郷という女性は、自分に会って、どういうことを言ってくるのだろうか。何か頼みごとなのか、それともほかのことなのか? 様々なことが頭をよぎる。
 小さいころおやじの酒飲みで懲りた。それが今、自分は、歌舞伎町の飲み屋街で仕事をしている。酒に縁があると感じた。それは宿命という大そうなものじゃなく、それに似たもののように。
 これからその東郷というセレブに会って、自分の人生はどう変化していくのか・・。
 裕は年甲斐もなく、冷静沈着に自己を見つめることを、既に身に着けていた。それは、自分の生い立ちによるかもしれなかった。
 
 突然、店の扉が開いた。
「マスター、遅くなってすみません。待たせたね」と言って店に入ってきた女性がいた。東郷光子だった。
 ごく普通の身なりというか服装だった。裕は意外な顔をした。セレブの割には着飾っていない。年恰好は五十代半ばのようだ。その顔には、人を射抜く一種独特の表情があった。
「東郷さん、いらっしゃいませ」と友子が微笑んだ。マスターの橋田は、東郷を奥のボックスに座るよう、友子に目配せした。そして、
「裕君、東郷さんのところに」と小さな声で裕に言い、裕の後から、奥のボックス席に行き、裕を東郷光子に紹介した。
「いらっしゃいませ。彼が細田裕君です」
 裕は、東郷に挨拶した。「細田裕です」と言って、会釈をした。
 東郷は橋田に、
「マスター、この子が例の細田君?」と聞いた。いま紹介したのに、なぜかまた聞いたのである。それは、裕の僅かな所作で、大まかな裕の性格を捕まえようとしているのだった。
「東郷さん、そうですよ」と橋田が言うと、東郷は、
「細田君、というよりヒロシ君、座りましょう」と言って、席に座った。
 裕は緊張した。これからどのようなことが待ち受けているのか。
 東郷は、注いでもらった麦酒を飲みながら、じっと裕を眺めていた。裕は金縛りにあったようにじっとしていた、というより動けなかった。
「裕君は未成年? お酒は飲めないのかしら」とマスターに聞いた。
「夜間高校を卒業したばかりなので」と橋田の言葉に光子は、
「あっ、そう」とそっけない言葉を発した。
「マスター、この子お借りしてもいいかしら」と東郷が聞いた。そして畳むように
「ヒロシ君、ご一緒して」とさも強引に店を出たのであった。裕はなすすべがなく東郷の後に従った。
 

いいなと思ったら応援しよう!