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短篇小説 晩景の花火(10)

 その後、順調に養子の話はすすんだ。
 沙友里の店を辞め、中野のアパートも引き払い、新宿区の東郷所有のマンションに越したのは、それから一か月後だった。

 裕は原宿の東郷不動産に勤めるようになり、不動産関連の勉強に余念がなかった。毎日真剣勝負の勤務で、精神的にもしんどかった。
 やがて、東郷に教えてもらいながら徐々に仕事にも慣れてきた。ありがたいことに、東郷は細部に亘って丁寧に裕の質問に応えてくれた。
 
 そうしたある日の午後、事務所に訪ねてきた二人連れの客がいた。一人は七十歳程度の紳士、もう一人は学生風の男性であった。年配の紳士は、何か落ち着きのない態度だった。事務所には東郷と裕、それに事務の女性の三人がいた。
 裕は面接テーブルに二人を案内した。
「どういうご用件でしょうか」と裕が二人に尋ねた。
 学生風の男性が、落ち着き払って言った。
「世田谷の野毛から来ました。実は自宅を売りに出したいと思いまして」と、言いながら、自宅の図面と写真、権利書をカバンから出し、テーブルに広げた。
 裕は「拝見しても宜しいですか?」と言ってそれらを手に取って見た。
事務所の奥から、東郷がやってきて、椅子に座った。裕が広げた写真や地図、権利書にさっと目を通した。東郷は長年の経験から、この持ち込まれた案件が、本物なのかどうか、そこをつかむツボをおさえている。東郷は若い男に向かって、
「お客様の身分証明かなにか、お持ちですか?」と聞いた。
若い学生風の男性が、バックの中から財布を取出し、その中から一枚のカードを出しテーブルに置いた。
「確認させていただいてよろしいですか?」と裕が確認する。
「どうぞ」と若い男が返事をした。
 確かに、該当住所になっている。運転免許証の顔写真も本人である。
 その登記建物は、土地面積が二五〇平米、建物面積一四二平米、最寄り駅の東急大井町線「上野毛」駅から徒歩約八分と書かれていた。
「ご自宅は多摩堤通りに面していますね」と東郷が住宅地図を広げて言った。裕は、年配の紳士を注意深く観察していた。その様子を東郷がチラッとみて微笑んだ。
「築年月は一九六〇年の十一月ですね。昭和三十五年ということですね」と東郷は独り言を言った。そして、年配の紳士に向かって、
「二人の関係は?」
「息子です」と学生風の男性が応える。父という紳士風の男性は、ただ頷くだけであった。
「お父さん、運転免許証か何か、確認できるものを見せてもらえませんか」と裕が尋ねた。すると、
「忘れてしまいまして、なにも持っていません」と言った。
 裕はそう言った紳士風の男性の目の泳いでいる様子を見逃さなかった。どうもおかしい。息子は本物だが、父親がおかしい。本人でないような感じがした。
「お父さん、ご本人を確認できなければ、お取引は難しいのですが、後日もう一度ご来店頂けますか?」と東郷が促した。すると紳士風の男性が、
「いや、今日に限って持ってくるのを忘れました」と頭を掻いた。それを聞いた裕の顔が曇った。
「お父さん、写真を一枚撮らせていただいて宜しいですか?」と東郷が聞くと、その父親が一瞬、どうしようという態度で息子を見た。
「一億円以上の売買ですので、念のためです」と、東郷が訊ねた。その後二三のやり取りがあり、息子は渋々父親の写真撮影に応じた。そして、持ち込まれた書類のコピーを取らせてもらい、後日、再訪することを約束し、帰ってもらった。
「社長、あの二人、どう思いますか」
「裕君、君はどう思った」
「息子さんは、本人に間違いないでしょうね。父親の方が、疑わしい」
「裕君、明日にでも、そのお宅の近所をあたってみてください。間違いなく撮った写真が本人なのか聞き込みをしたら判るはずよ」
 裕は、東郷が写真を撮らせた理由がそこで判った。
 

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