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ゴメが啼くとき(連載9)
その後もハナは迎えには来なかった。
国民学校を卒業できなかった文江は、佐藤家の子供たちと一緒に、一里の黄金道路を通学することはなくなったのである。
当時、戦時体制に応じた教育を行っていた学校に行けなかった文江にとっては、負け惜しみではあったが、ある面救いだった。戦争は大嫌いだった。
文江は、もう、迎えに来てもいいころだと、毎日 母を待った。
そして待ちきれず、昭和十八年(一九四三年)九月の半ば、ついに母のいる歌別に向け出発した。文江 十四歳の年だった。
佐藤家の皆に、今まで世話になった礼を言い、風呂敷包み一つを抱え、フンコツ(白浜)を後にした。
庶野を通って坂道を歩いて行った。途中、望洋台のベンチに座り、フンコツ、目黒方面の海岸線を眺めた。空には雲がどんより立ち込め、文江の心と同じ空模様だった。目黒での二年間の奉公やフンコツでの生活を思い出していた。
いままでの自分の生活を顧みた。
他人に気を使い、息をするのも憚れるような生活だった。
結局、自分が弱かったせいだろうか。
そういう環境に生まれ育ったせいなのか。
しかし、文江は、周りの環境のせいだとは露ほども思わない。自分が強くならなければ。これからの人生、自分で切り開いていかなければならない。
しかし、まだ十四歳の文江には勇気が湧いてくるはずもない。ひたすら歌別を目指して歩いた。
朝の八時にフンコツを出発して、歌別の実家に着いたのがお昼を少し回ったころだった。
「かあさん!」
玄関で文江は、家の中に向かって声を掛けた。家の中は静まり返っている。
玄関の戸は開いていた。
自分の家に入るのも、気が引ける。文江はそういう自分の気持ちに対して苦笑いをした。今にも降り出しそうな空模様だった。
少ない荷物を居間の隅に置き、座り込んだ。
新しい父がいつも座っているであろう場所を避けて、その対面に座った。
そのうち、長旅の疲れのせいか、寝入ってしまった。
何時間たったころだろうか、外では雨が降り出していた。
玄関先で人の話声がする。その声で文江は目が覚めた。
「あれ、誰か家の中にいる」と母ハナの声がした。
「だれだ? 熊でもはいったか」と野太い男性の声だ。
文江は、玄関に向かった。
「かあさん、わたし・・帰ってきちゃった」
「文江! そうかい、そうかい! 一人でフンコツから歩いてきたのかい」
「そだ」と文江が微笑んだ。
「フンコツからじゃ遠かったべ」と、その男性が文江に話しかけた。
「うん」と初めて見る今度の新しい父親に言った。
文江にとっての新しい父は、見るからに男前とは言えなかった。
特徴と言えば右頬に大きなコブがある。にこやかに優しく文江を見つめている。母はどこでこの男を見つけたのかと思ったが、そう思ったのはその時だけだった。
文江は、この日から歌別の実家での生活が始まった。