作家カポーティについて、本気だして語ってみた。
みなさん、トルーマン・カポーティという作家を御存知だろうか?
今回はカポーティという作家について
本気だして語ってみることにする。
世間一般で知られているのは
オードリー・ヘップバーン主演で映画化された
「ティファニーで朝食を」(原題 Breakfast at Tiffany’s)
の原作者として、が一番有名か?
御存知ない方にも説明しておくが
ティファニーというのは宝飾店である。
飲食店ではない(笑)。
大阪だと心斎橋にもお店があるんだけども
ティファニーは
世界中、どの店舗も
店の前にちょっとした
ショーウィンドウがあって
そこにちょこっと、商品が飾ってある。
「ティファニーで朝食を」のストーリーについて
ざっくりとだけ、解説しておくと
主人公であるホリーは
自分の人生とか、生きてることとか、
「このままでいいのか?」とか
そういうので悩んだ時には
ティファニーの前に行く。
で、例の小さいショーウィンドウに展示されてるものを見ながら
店の前でパンを食べるのである。
確か映画だとこれ、冒頭であったシーンだと思う。
これは映画でも有名なシーンだから、もし良かったら
映画のほうをご覧いただきたい。
「生きてることに迷ったら
ティファニーの前に行って
朝ごはんを食べるの。
あの、気高い美しさを目の前にしながら
パンをもしゃもしゃ食べてると
生きる希望が湧いてくるのよ」
という主人公の独白があるんだけども
これ、映画だとオードリー・ヘップバーンが
やってるからこそ、絵になるのであって
私みたいなオッサンがティファニーの前で
同じことをやったら
ほぼほぼ営業妨害である(笑)。
このシーンのおかげで
ティファニーは世界で最も有名な宝飾店となった上に
「あの映画の?!」という確固たる
ブランドイメージも築き上げた。
ちなみに2001年に訪米した際
20代の怖いもの知らずだったせいもあって
ニューヨークに行った時に
ティファニーのショーウィンドウの前で
パンをかじって「ティファニーで朝食を」ごっこ
してバカをやらかしてた(汗)。
そのあと、コロンビア大学にいって
当時80歳だった南部陽一郎と初めてあったのも
懐かしい話だが、この話はまたの機会にでも。
カポーティの生涯は決して順風満帆でもなければ
幸福であったとも言い難い。
父親は詐欺師で
物心つく前に両親は離婚。
カポーティを引き取った母親は
我が子のことなど、どうでもよくて
カポーティを祖母にあずけて
あれこれ好き勝手をさんざんやらかした挙げ句
母親は自殺する。
そのためカポーティは幼くして
祖母とか親戚とか里親とかの家を転々としながら
育つ。
両親の離婚もそうだが
父親が詐欺師だったこと、
母親が自分を捨てたこと、
あずけ先で行われていただろう数々の虐待の経験
そして母親の自殺
という経験は
カポーティの人生に終生、暗い陰としてつきまとうことになる。
当然、どこにいっても孤独な少年時代であった。
生きることの、さみしさや辛さを和らげるため
というよりは、ほぼほぼ現実逃避のため
カポーティは「物語を創る」という行為に没頭した。
物心ついたときから創作活動に没頭していた。
彼にとって「作家になる」というのは
当然の帰結であり、生存戦略でもあった。
彼をして「早熟の天才」と表する声は多々あるけども
「物語でも創って現実逃避してないと死にたくなる」
という彼の置かれた幼少期の環境を見たら
それは仕方ないだろ、って気にもなる。
というわけで、カポーティの場合
デビューの時点で
「アンファン テリブル (恐るべき子供)」
と評されたように
最初っから凄まじいまでの高評価を
受けた。
まぁデビューでいきなり
ニューヨーカーに掲載されるぐらいだから
相当なものだと思う。
彼が天才であったのは間違いない。
そして「天才」と言えるレベルの作家の場合
・誰もが好きになってしまうような言葉をその状況にあわせて
言うことができる
・一瞬で相手の心を引き裂くような言葉を選んでいうことが
できる
という「光と影」の二面性をもつ。
カポーティはこの二面性が、かなり激しい作家であった。
上っ面だけの褒め言葉しかいえないような人は
一流の作家になれない。
一瞬で相手の心を奪うようなことを当意即妙に
言えるようでなければ
一流の作家とは言えない。
ムカついたからといって、感情にまかせて
その場かぎりの罵詈雑言を吐いたり、毒づくだけの人は
一流の作家になれない。
「その一言」で相手から生涯にわたって
恨まれるような「心を切り裂く一言」を
言えるようでなければ
一流の作家とは言えない。
この基準で見た場合
カポーティは掛け値なしの
「人たらし」であり「毒舌家」であり
そして、やはり、天才である。
いくら人気作家だったとしても
家柄も出自もたいしたことない人間が
いきなり現職の大統領と
仲良くなれるわけがない、のだが
カポーティはそれをやってのけている。
当時のアメリカ大統領、ロバート・ケネディとは
親交があって、一緒にプールで泳いでたりとか
プライベートで仲良くしてた、ってのは
普通ではない。
一方で、ケネディについては暗殺後
「一緒に風呂入って、サウナにも入ったんだけどよ、
アイツ、チンコめっちゃ小さかったぞ(笑)」
とか
平気で言うようなところがあった。
もっと露骨な例として
カポーティは
三島由紀夫が訪米した時に対談してるんだけども
その日の晩に、三島由紀夫から
「今夜、白人のチンコしゃぶりたいんだけど
どっか、いいとこ知らない?」
と電話があったという。
(三島由紀夫が隠れゲイであったのは有名だが)
「こっちは置屋のおかみじゃあるまいし。
けど、仕方ないから
そういうとこ何軒か紹介してやったよ。
けど、その後、礼の一つも言ってきやしない。
いったい、どういう神経してるのかね?アイツは」
と、おおっぴらに三島由紀夫の性癖を
バラしてしまい大騒動になったことがあった。
(カポーティは生前からゲイであることを公表していた)。
このエピソード一つをとってみても
カポーティが初対面で
隠れゲイの三島由紀夫の内面に深く切り込んで
心を許すような「天性の人たらし」であった
という一面と
なんのためらいもなく
「三島由紀夫が白人のチンコしゃぶりたいから場所おしえてくれ
って言われた」って相手の迷惑かんがえずに
それをためらいもなく、世間に公にする
残忍な一面は
カポーティという作家を考えたときに
一つの手がかりとなると思う。
世間一般に知られている彼の代表作、となれば
映画化された「ティファニーで朝食を」であろうが
文学的に彼の代表作は?となると
やはり「冷血」である。断言してもよい。
ちなみにこの作品も映画化されている。
通常、映像化された方がわかりやすいし、優れている
場合が多いのだが、この作品に限っては
文章で読んだ方がよい、優れている。
「冷血」は実際に起きた殺人事件について
犯人二人の死刑執行までを描いた作品である。
1959年 アメリカ カンザス州 ホルカムで
農場をいとなんでいた一家四人が惨殺された。
農場主はナイフで首をかき切られた上に
至近距離から散弾銃で撃たれていた。
農場主の妻、そして二人の子供たちも
手足を縛られた状態で
至近距離から散弾銃で撃たれて死亡していた。
これらの犯行には一家に対する深い憎悪を
感じさせるものがあったが
この一家は全員、つつましくも
誠実に静かに真面目に暮らしていて
誰かから恨みを買うとは
まったく思われていなかった。
なぜ、こんなむごいことが?
という所から物語は始まる。
ネタバレになってしまうが、
犯人の二人はこの一家とは面識がなかった。
犯人の二人はそもそも割と軽微な犯罪で
刑務所で知り合った仲であった。
そこで刑務所仲間の連中が
「収穫期になると、あそこの家はバイトを募集する
むかし、バイトであそこで働いたことがあるが
かなりの大規模な農場主だから、カネはたんまりと
あるハズだぜ」という話をきいて
二人は「じゃあ、ここを出所したら、そこにいこうじゃないか。
それでカネをたんまりいただいて、トンヅラして逃げる
楽な商売じゃないか?(笑)」
と犯行を計画する。
そして、おめあてのカンザス州 ホルカム
地元の人ですら「むこう側」と呼んでいるような
辺鄙な場所に暮らす農場主、クラター一家のところへ
二人はのこのこ行ったわけである。
強盗目的であがりこんだのはいいが
ここの家は文字通り
つつましい生活を営んでおり
なにより主人は現金を持つことを嫌っていた。
資産ならばそれなりにあるのだが
支払いはすべて小切手で済ませる、という
生活を送っていた。
ゆえに、家の中にはめぼしいカネメのものなど
まったくなく、現金といえば
今の日本円にしていうと3000円ぐらいしかなかった。
これに逆上して二人は
一家を惨殺してしまう。
農場主クラターが嘘をついていたわけではない
なにか犯人たちを逆上させることを言ったわけでもない。
事実、カポーティの取材
(アメリカでは死刑囚でも面会することができる)では
「すごく真面目でいい人だったと思う。
違う形で出会っていたら仲良くなって
友人になっていたと思うね、
喉元をナイフで切り裂くまでは」
と犯人は述懐している。
田舎の大金持ちの農場主をおそって
大金をせしめてやるのさ、
それでトンヅラする、
ボロい商売だろ?
というのが当初の目的だった。
殺すつもりなどなかった。
が、実際、いってみると
全然カネなんて、ありゃしねー。
そこで心の糸がプツリと切れるわけである。
それまで何をやっても成功しない
「ツイてない人生」の連続
こんどこそは、と思って
「チョロいぜ」と思って
「あそこの家はカネがたんまりとある」と思って
おしいった先の家にあったのは
現金で3000円程度だけ。
今回もやっぱり「ツイてなかった」わけである。
そこで一気に犯人二人は
それまでの「ツイてなかった人生」に対して
恨みつらみを爆発させたわけである。
別に初対面のクラター一家に恨みがあったわけではない。
自分らの抱えている
人生の恨みつらみをぶつける矛先がたまたま
彼らだっただけである。
とんだとばっちり、というしかない。
この手の犯罪は日本でも最近
増えてきているのではなかろうか?
人間には耐えられる不幸の限界量があるわけで
それを超えると
自殺するか
やぶれかぶれで人を殺すか
の二択となる。
「自分が死んでもかまわない」
「自分が死刑になってもかまわない」
となると所謂「無敵の人」になるわけであって
犯罪心理学の世界でいうと
永山則夫 死刑囚とか
最近だと京アニ事件(死者36人)の犯人とか
大阪、北新地で起きた
心療内科でのビル放火事件(死者25人)の犯人(死亡)とか
私自身の身近な例でいうと
秋葉原事件(死者7人)の加藤智大 死刑囚とか
武富士放火事件(死者5人)の小林光弘 死刑囚とか
なんかが該当する。
話をもどす
カポーティの「冷血」においては
「一線を超える」つまり殺人をおかす
という所までの描写が
本当に生々しくて、すさまじい。
これは死刑判決を受けた本人から
直接インタビューして得られた情報を
そのまま正直にのせてあるので
説得力があるし、真実そのものである。
カポーティはそこに目をつけたわけである。
「これは売れるぞ!」と。
また同時にカポーティは
犯人の一人、ペリー・スミスの
生い立ち、半生が
自分自身と酷似しており
共感していた。
カポーティ自身は生涯にわたり
殺人をおかしていないけども
彼自身、ペリー・スミスと
自分は「同類だ」と知っていた。
後年、カポーティがペリー・スミスについて語った
「おなじ家で二人の男が育った。
一人は表玄関から
もう一人は裏口から
出ていった」
という発言からも、これはよくわかる。
カポーティは犯人の一人に
深い共感を示した。
同時に作家としてのサガだろうが
「これはネタになる」とも思った。
先にも述べたがカポーティは天性の「人たらし」である。
逮捕され、死刑判決を受けることになる二人に対して
その不幸な生い立ち、半生に対して
「君のことはよくわかるよ」と
仲間のように添い遂げるような態度を示す。
そのおかげで犯人二人は心を許し
犯行に至るまでの半生や
心理状態について生々しい告白を
カポーティに打ち明ける。
カポーティはそれを「ネタ」にした。
自分の作品のために
彼らを利用したのである。
彼の知名度、財力、影響力をもってすれば
死刑を回避するために
弁護士を雇うとか
除名嘆願運動をするとかも
できたのだが、
カポーティの行動にそういった行動の痕跡は
まったく無い。
作品の完結には
「犯人の死刑執行」が
どうしても必要だからである。
カポーティは死刑囚二人に対して
片や
天性の人たらしの技術を駆使して
二人から欲しい情報をことごとく
まんまと聴きだして「ネタ」にしていたし
一方で
作品を一刻も早く完結させるために
一刻も早い、彼らの死刑執行を望んでいた。
悪魔の所業といってもよい。
in cold blood
日本題だと「冷血」
はたして冷血なのは
犯人二人なのか?
カポーティなのか?
それとも両方なのか?
私は両方が「冷血」である
という説をとる。
犯人ふたりが初対面の一家を惨殺した
という時点で「冷血」なのは
間違いないけども
自分の作品のためだけに
死刑囚をたぶらかして
情報を引き出して
ネタとして利用していた
カポーティ自身も「冷血」である。
なにより、カポーティ自身
犯人のひとり
ペリー・スミスに対して
「自分は同類である」ということを
認めている。
ここらへんが小説「冷血」について
作品としてより一層
凄みを与える結果となっている。
この作品の結果
カポーティは不動の名声を手に入れた。
キャリアとしての絶頂である。
が、それ以降
彼は長編小説を書けなくなってしまった。
多くの評伝、記事にはこれについて
「才能を使い果たした」とか
「燃え尽き症候群」だとか
そういった安易な分析をしているが
私はそうだとは全く思っていない。
彼は「禁断の扉」を開けてしまったのだと思っている。
天性の人たらしの才能をもってして
ケネディ大統領と仲良くなって
一緒にプールで泳いで
そのあとサウナで談話して
で、後日に
「アイツ、チンコめっちゃ小さかったわ(笑)」
ってバラすのと
死刑囚と仲良くなって
「君の気持ちはよくわかるよ」って
味方のフリして近づいて
聴き出した情報をすべて
小説のネタとして
利用する、
のとでは話の次元が全く違う。
明らかに「一線を超えて」いる。
その結果、
出来上がった作品は彼の名声を
確固たるものにしてくれたけども
作家として
「たとえどんなに天才であったとしても
フィクション、つまり架空の話より
ノンフィクション、現実に起こった話の方が
物語としての迫真性、説得力が圧倒的に上だ」
という事実をつきつけられた。
ゆえにそこから先の作家としてのキャリアは
フィクションで書いていくことはもう無理なのだ。
死刑が執行されるまでつきあった
二人との日々の記憶が
あまりにも生々しすぎて、強烈すぎて
フィクションをつくる創作能力を
一切うしなってしまった。
もう一つの理由は「悪魔の契約」といってもよい。
「冷血」の舞台となる事件について
事件の発生についてはカポーティには
なんの責任もなければ、咎もない。
だからこそカポーティは
自分だけは安全な場所にいながら
死刑囚と対面し
相手に対して同情し、心をよせ
「君の味方だよ」という
偽りの仮面をつけて相手に擦り寄りながら
作品のネタとして
欲しい情報を死刑囚から
直接引き出すことに成功した。
が、
次に作品を書くとして
そんな都合のいい環境の話など
そうそう滅多にあるわけではない。
ていうか、ない。
フィクションを創造する力はもうなくて
ノンフィクションで攻めていくしかない。
でもネタ切れ。
加えて、前作を超える作品を創るとなると
「現実世界で誰かが死ぬようなレベル」
の話でないといけなくなってしまった。
死刑囚とのたびかさなる
インタビューは
それ自体、彼にとって
麻薬的な快楽であった以上、
もしも、次回作を創るとなると
誰かを「生贄」として殺さねばならない。
彼はそれを自覚していたはずだ。
そして、それが彼を苦悩のどん底に落とした。
ならば、いっそ文筆業を引退して
余生をすごすという生き方もあるが
ものごころついたときから創作活動してきた彼にとって
書くことは生きることそのものである。
書くことをやめるのは生きることを諦めることと同じである。
こうして彼は精神的にどんどん追い詰められていった。
書くという行為について
「2メートル四方しかないプールに
50メートルの高さから飛び込みしろ
って言われてるような気分だ」
とカポーティ自身、述懐しているが
おそらくこれは本当だと思う。
自分が書く、という行為を通して
誰かが死ぬ、というリスクをおかさねばならない立場になったのは
文字通り「呪われてる」と言ってもよい。
それでも生きている以上は書かねばならない。
そしてそれをする、ということは
だれかが死ぬことを意味する。
案の定そうなった。
事実上、彼の遺作となる
「叶えられた祈り」は未完でおわる。
叶えられた祈り、は
ニューヨークの上流社会
いわゆるセレブの人々を描いた作品だが
ここには明らかに誰なのかわかる
実在の人物たちの
スキャンダラスなゴシップが多々
登場する。
おそらく本当の話であろう。
その結果、一人の女性が自殺している。
そう、カポーティは「冷血」漢であり
自分のためならば
ためらうことなく人を自殺に追い込む
モンスターとなっていた。
この出来事が発端でカポーティは
ニューヨークの社交界から
完全に締め出されることとなったし、
事実上、作家としてのキャリアは終わった。
そして酒とドラッグに溺れてゆく。
彼は一線を超えた。
モンスターとなった。
それは彼の晩年の作品、そう
いわくつきの作品
叶えられた祈り の一節によく現れている。
「もし何でも出来るなら私は、
私たちの惑星、地球の中心に出かけていって、
ウラニウムやルビーや金を探したいです。
まだ汚れていない怪獣を探したいです。
それから田舎に引っ越したいです。」
(以上「叶えられた祈り」より)
「まだ汚れていない」怪獣
カポーティ自身、自分が
「汚れてしまった」怪獣だと
わかっていたのであろう。
カポーティは
まぎれもない天才であり
恐るべき子供であり
そして
「汚れてしまった」怪獣であった。
汚れる前の自分に戻れるものなら戻って
田舎に引っ込んで静かに暮らしたい
これが晩年のカポーティの
正直な、切なる願いであったと
今ならばわかる。
その後、何一つまともに書けなくなるほど
酒とドラッグに溺れ
そして、ドラッグの過剰摂取による心臓発作で
カポーティは亡くなる。
以上
これが私見としての
カポーティの生涯である。
もし良かったら、彼の作品を読んでみてほしい。
堪えきれないような孤独と闘った一人の人間の軌跡を
かいまみることができる。
小説「冷血」の舞台となった
1959年 11月 15日 の一家惨殺事件から
ちょうど64年たった
2023年 11月 15日
に記す。