ワタシが「光る君へ」がニガテな理由。
できるだけ、このドラマには
触れないように
触れないように
今年は生きてきた。
嫌い、なのではない
関わりたくない、のだ。
史実とは異なるから、
間違ってるから?
そもそも大河ドラマって
その殆どが
フィクション(=つくり話)な
わけでして、
「たかが
大河ドラマに
歴史の真実を
求めてんじゃ
ねーよ(笑)
バーカ(笑)」
って
言われたら
まったくもって
その通りなのだが。
おそらく、これは
私自身、歳をとったから
という問題なのだと思う。
説明させてもらうと
虚実いりみだれる世界
いちばんわかりやすいのが
芸能界のネタだと
思うんだけども
小中学生に
人気の女性アイドルについて
「デビューのきっかけは?」
との質問に
本人が
「原宿で友達と歩いてたらスカウトされて」
とか、今だったら
「絶対、んなわけねーだろ」
とツッコミいれたくなる
返答であっても
40年前、小学生だった頃の
私ならば
「そうなんだ?」と
無邪気に
それを信じていられたし、
男性の人気アイドルと
熱愛報道とか出ても
「彼とは、仕事上
とてもイイ、お友達で。
おつきあい?
いえいえ、そんなのは
ないですぅー(笑)」
と記者会見ひらいて
本人がこたえてたら
「そうなんだ?」で
信じていられた。
そういうのがもう通用しないんだな、
って痛感したのは
21世紀になって
清純派で
売り出してた
北乃きい、が
男性共演者と
ラブホから出てきた写真を
週刊誌にパパラッチされてから
ネットでは彼女を
「肉便器ぃ」と
呼ぶようになり、
仕事は激減し
ネット民の
おもちゃ、みたいな
扱いをされるようになったのを
目の当たりに
したあたりから、か。
なにが本当で、なにがウソなのか
だなんて
このネット社会では
わからなくなって
きたし、
同一人物の女性タレントが
片や 清純派
片や 肉便器
として
同時に扱われてるのは
正直、この歳になると
見てるだけで
シンドい。
歴史上の人物、
大河ドラマだと
信長とか秀吉とかの
戦国武将を
どう扱うか?は
ある程度、フィクション、
つまり虚構やウソみたいなものが
物語上あってもいい
とは思ってるのだが
今回は
藤原道長と紫式部が
主人公で出てくる、となると
実在する
天皇も
主要な登場人物として
出てくるわけで
一般人である俳優が
天皇を演じる
ということや、
ドラマ化に際して
実在する天皇が
色々とデフォルメされ
キャラを改変される事には
強い拒絶感をおぼえた。
なぜならば
これはとりもなおさず
実在する天皇が
大衆の娯楽対象として
歪曲され
消費されてしまう
ということに
なるからだ。
戦国武将の
ひとり、にすぎない
明智光秀が
私怨で主君である
信長を裏切って
本能寺の変を起こす
というのは
わかるし、許せるけども
実在する天皇である
一条天皇がドラマでは
后である
中宮定子に先立たれて
いつまでもメソメソしている
みたいな描かれかたを
されてるのは
あまりにも安易だし
納得できない。
不愉快だ。
「このぶんだと
三条天皇は
野心だけが先走ってた
愚かなオトコ」
として
描かれ、そして
転落して退場なのだろうな、と
思ってたら
案の定、ドラマでは
その通りとなった。
三条天皇が
病により目が見えなくなり
それが天皇を退位することに
なる、大きな理由であったこと
これは歴史的に正しい。
だが
大河ドラマ 光る君へ
で描かれた
三条天皇は
己の病にも気づかず
権力欲、支配欲に
取り憑かれ
私利私欲に奔走する
野心だけが
先走った
愚かなオトコ
で、あった。
私は今年の夏休み
高校生を対象に
古文の文法を教えたが
その時に
「大鏡」の一節を引用した。
大鏡は
高校生でも理解できる
平易な文章だが
内容はよく出来ている。
場面は
三条天皇が退位したあとの話、
三条院となり
特にかわいがっていた
一品の宮(いっぽん の みや)
の頭を撫でながら
涙する場面である。
現代語訳するならば
三条天皇は退位後
目が見えなくなり
一品の宮(御髪が美しいことでも
知られていた)の頭を
三条院は
撫でながら
「このように美しい御髪を
自分はもうこの目で見ることが
できなくなったのは
たいへん、口惜しく
残念なことである」
と言って
ポロポロと涙を
こぼしてらっしゃった
三条院の御姿は
とても
気の毒なことであった、
といった程度の
文章である。
歴史上の人物について
何が本当で
何がウソなのか、は
いまの我々には
わかりかねるが、
それでもなお
三条天皇について、ならば
大河ドラマ 光る君へ よりも
大鏡での描かれ方の方が
よほど真実であると
私なんかは思う。
なによりも
現代の
テレビとか
映画とかで
安易に
実在する天皇を
登場人物として
描くことには
非常に強い懸念を覚える。
危機感といってもよい。
これを際限なしに
認めてしまうと
たとえフィクションであっても
小説や映画などで
実在する天皇について
「・・天皇はこういう方であった」
という人物設定が
際限なしに
いくらでも横行することを
認めることになる。
これは
とても危険なこと
ではなかろうか?
私は現在の
日本国憲法による
象徴天皇制に
大いに賛成なのだが
もしも万が一、
天皇の存在を
政治的に利用しようとする
狂信的な集団があらわれて、
そのための「手段」として
天皇を
現人神(あらひとがみ)
に祀り上げようとする意図で
小説なり映画の中で
狂信的なまでに
実在する天皇を賛美したり
歴史そのものが
歪曲されるようなことが
出てきたら
これは取り返しが
つかないことになるし
その逆で
天皇を貶める目的で
実在する天皇を
とんでもない悪人であるかのように
人物設定を歪曲された
小説や映画がでてきたりしても
やはり取り返しが
つかないことになる。
この手の問題は
天皇の政治的利用に
発展しかねない話であり
ゆえに
細心の注意を
はらうべき問題では
なかろうか?
私はそう考える。