あくまで個人的な話として、西田敏行におわかれの、言葉をいうならば。

今回の記事は
青森高校の現役の生徒向けに、個人的な話として。

まぁ、地方の進学高校の生徒さん、むけに。

私が県立 青森高校を卒業したのが
西暦 1994年 3月なので、
もう卒業してから30年が、たつ。

県立 青森高校の進学実績としては
歴代最強の44期生なので。

「昔は良かった」などという
くだらない回顧趣味の記事など書きたくはない。

今の子には今の世代なりの強みもあるはずなのだから
それを見抜いて、引き出して、活かしてやるのが
「先輩」である「歳をとった人間」の、お仕事である。

「私はこう思う」ということを書く以上
青森高校生のみなさんが
「私はそうは思わない」というのも
私は認める。

あくまで、一個人の話として書く。

おかげさまで、退院してから
もうすぐ2週間が過ぎようとしているが
予後もよく、体調はきわめて良好である。

人様の訃報(お亡くなりになった、という記事)で
涙を流すというのはあまりしない人間である。

そもそも、
葬式自体、

小学校4年生の時に 同級生が亡くなった時と
あとは実家の祖父母の葬式

の3回しか出たことがない。

お亡くなりになった、ときいて
ハラハラと涙を流したのは

私個人の話としては
南部陽一郎
イッセイミヤケ
そして
西田敏行

の3人しかいない。

実家の祖父母の訃報をきいた時も
自然と冷静であった。

戸籍上の父親にあたる人は
実家から自動車で15分程度の所にある
浪岡、樽沢、の
清野家であるが、

父方の祖父母に関しては

そもそも亡くなったことを
知らされていないし、ゆえに
通夜、葬式にも出ていないし

という、感じだ。

なので、私のことを冷血漢だと
思っている人らも、あちらには
たくさんいるだろうし、

それでいいと思っている。

南部陽一郎と、イッセイミヤケとは
面識があったけども

西田敏行とは
テレビとか、映画館とか、舞台の上で
観客としてみてるだけの立場であって

「なぜ、西田敏行だけ?」というのが
私個人の中にもあった。

そしてそれを延々と考えていて、一つの結論に達して
「あぁ、そういうことか!」と、勝手に独りで
納得していた。

理由としては、大きく2つ

・亡くなった時のタイミング

・そこから浮かび上がってきたこと

この2点である。

割と
「死んでてもおかしくなかったんだよ、アンタ」
という状態で救急車で病院に
運ばれてきて、

なんとか生きながらえて、退院しているわけだが

3周間の入院生活の間に

・大山のぶ代(ドラえもんの、声優さん)
・ピーコ(オネエさんのファッション評論家)
そして
西田敏行、と
週替りで、訃報をきいたのは
やはり、こたえた。

「虫の知らせ」というのがある。

「もうすぐ、この人が亡くなるよ」
という時の直前に
なにかの兆候が出てきて
あとになって「あ、これか」

と本人が気づく、というものなのだが

私の場合
49年間生きてきて、この
「虫の知らせ」をきいたのは

萩原健一
西田敏行

この二人だけである。

フツーに過ごしていたのに

なぜか「傷だらけの天使」のテーマを
吹きたくなって
サックスかかえて
近くの運動公園で、割と一心不乱に
練習して吹いてたことがあった。

楽譜もっていないんで
完全に耳コピーなんだけども

「傷だらけの天使っすか?」
「それ、いいっすね!」
とか、通りすがりの人たちからも
好評をいただいて
まんざらでもない気持ちでいた
所に届いたのが

萩原健一の訃報であった。
あの時は泣かなかったけど。

そして2つ目の「虫の知らせ」は
西田敏行のとき、である。

私自身、救急車で病院に運ばれてきて、最初は

・尿道にカテーテルつっこまれてて自分でオシッコも出来ない
・左腕には始終、ぶっとい針で点滴打たれている

という、大変、不都合な状態からスタートの入院生活であったが
・尿道へのカテーテルも、はずされて
・点滴による治療も、一通り、おわって

あとは病室で寝っ転がって3食たべながら
食後に処方されたお薬を飲むだけ

という生活になり

朝6時から夜9時までは同じ階の
談話室(テレビもある)で
自由に過ごせれる、という生活だったので

これはこれで気に入っていたのだが、

いつものように、談話室で
東京大学の入試問題を解いていたら

談話室の中央にあるテレビ
当時は昼の情報番組が

「たった今、はいってきた緊急情報です。
本日、正午ごろ、俳優の西田敏行さんが
自宅のベッドの上で冷たくなっていたところを
付き人の方がみつけ
その後、駆けつけた警察によって
死亡が確認された、ということです」

私自身なんぞは入院中で
死にぞこない、ながらも
なんとかなっている状態であり
やはり、ショッキングな訃報であった。

彼に関する、私にとっての「虫の知らせ」としては

入院中に、あれこれ世話してくれてた友人から、

彼:
「おい、知ってるか?
屋根の上のバイオリン弾き、
来年の3月、市村正親がテヴィエで
やるんだってよ!」

私:
「明治座で、かぁー!
こりゃ観にいかないとな!」

という
話をきいた当日に、この訃報、である。

青森高校生むけに少し解説を書く。

ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は
アメリカ、ブロードウェイで大ヒットした
ミュージカルであり、映画化もされている。

舞台は現在のウクライナ。
そこに住む、貧しい
ユダヤ人一家の物語である。

あらすじを簡単に説明すると

貧しいながらも酪農家、そして牛乳屋を
営んでいるユダヤ人のテヴィエは
奥さんには頭があがらないものの
5人の娘を育てている。

そろそろ、結婚適齢期に入る
3人の娘には
父親として、それなりの相手と結婚して
幸せになってほしいと思うのだが、、、、

そうはいかない。

3人の娘たちは
それぞれ、自分が好きになった相手を
見つけてきて
「パパ、ママ、わたし、この人と結婚したいの!」

と、それぞれが
わがままなことをいい
それぞれが
かけおち同然で結婚し別れてゆく。

敬虔なユダヤ教徒としての父親テヴィエとしては
「そんな勝手なことなど許さーん!」と
怒りたいところだが

一人前、といってよい年齢になった
娘たちが、自分たちの
生涯の伴侶を見つけてきては

各々が
「私、この人と結婚して家庭を持ちたいの!」と
真剣に訴えられては

父としては
悩ましい限りである。

「家父長としての父親の言うことがきけないのなら
オマエとは絶縁だぁーー!」と
娘らを突き放すこともできるのだが

娘たちの幸せな未来を
応援したい父親としては
娘たちが自立し、自分の人生を自分で切り開いていこう
とするのも応援したい。

テヴィエは
父親として、この両極端な選択の間で
もがき苦しむのだけども、

やっぱり最後は娘たちの幸せを祈って
娘たちの選択を尊重し
娘たちの門出を祝うことを選ぶ。

三人とも全く別の職業の男と結ばれて
ここ、ウクライナからは
去っていく。

おそらく、もう生涯、娘とは会うこともできないだろう。

なぜならば、その頃
ロシアが
「どうもロシアはウクライナに住んでるユダヤ人を追い出すらしい」
という噂がユダヤ人コミュニティでも広がっていたからだ。

年老いた夫婦である
父 テヴィエ 母 ゴールデ
ではあるが、娘たちの結婚を祝い
そしてウクライナから出ていけ、と
いわれて、ウクライナから出ていくことを選ぶ。

残酷な言い方をすれば、
とあるユダヤ人一家が

家庭崩壊してバラバラになり
年老いた両親は長く住んでいた
土地を追放され、離れていく、

という、おもーい話だ。

ユダヤ人の大統領をもつウクライナが
ロシアと戦争している現状を見ていると
色々と考えてしまうのだけれども、
タイムリーな話でもある。

日本に限っていえば、
「英語の歌詞を日本語の歌詞になおして」
「それでむりやり、向こうのリズムで歌って踊るだなんて」
というのが、
それまでの「ミュージカル」という
分野に対する日本人の評価であって
そういう先入観をひっくり返したのも

「屋根の上のバイオリン弾き」であった。

日本での初演は1967年
テヴィエ役が森繁久彌
ゴールデ役が越路吹雪
で、帝劇で行われた。

大ヒットした。

森繁久彌は約20年間、900回も!
テヴィエを演じ続けた。

これまで日本での
屋根の上のバイオリン弾き、で
テヴィエを演じた俳優は

森繁久彌
上條恒彦
西田敏行
市村正親

の4人だけ。

市村正親さん も 素晴らしい俳優なのは
まちがいない話であって

来年3月の彼の舞台は是非、観にいくと思う。

ただ、それとは別に
これは私のスケベ心なのだけれども
「西田敏行のテヴィエをもう一度、観たい」

と思っていた、その日に
西田敏行の訃報をきいたわけでして、

「あぁ、もう西田敏行が舞台の上でテヴィエを演じてるのを
自分が観るのは無理なんだな」という現実をつきつけられると
はらはらと、涙が出てきた。

入院中でありながら、
「オマエも、いつかは死ぬ身なのだ」という
ごく当たり前の現実を突きつけられたのも
しんどかった。

私が青森県立 青森高校へ入学したのが
1991年で

高校1年生の1学期の英語の授業で

When he was young , he was idle.

これは英文法の授業だったと記憶している。
(当時の青森高校の英語授業は
英文解釈と英文法とでそれぞれ独立していた)

この文を
「彼が若かったとき、彼はアイドルだった」
と訳そうものならば
英語教諭は顔を真っ赤にして激怒したものであった、

「バッカモーン!日本語で使われているアイドル
小泉今日子が歌っている
なんてったってアイドル、のアイドルは
idol と表記するんじゃ、ヴォケ!!
しかも idol は名詞じゃぁあああ!!!」

と、まずは怒鳴られる(汗)

「idle は形容詞で
怠けている、怠惰な、という意味じゃバーカ!!」

「オマエら、名詞と形容詞の違いも知らずに
セイコーに入ってきたのか!!このヴォケが!!」


いやー、入学して高校1年生の4月でこれ、だから
正直、「とんでもない所へ入学しちまったな」
と思ったものである。

I miss you.

これを訳しなさい、といわれて
「私はあなたに対して、間違いを、おかしました」
とか言おうものならば、
そこで英語教諭のブチギレ part2 である。

「バッカモーン!
間違い を意味する英単語は
ミスではなくて mistake ミステイク じゃー!」

「この場合の miss は
~がいなくて、淋しいと思う、
という意味の動詞じゃぁ!ヴォケ」

I miss you.

(私は)あなたが いなくて さみしかった

という意味じゃ、バーカ!

オマエら、動詞と名詞の区別もつかない
バカなのか、このヴォケが

ぐらいのことは
入学したての4月で言われた。

「入る学校、間違えたのかな?」と落ち込んだな(汗)

I miss you. 
には、思い入れがある。

映画 フォレスト・ガンプ 一期一会 では

大事な場面で
このセリフが2度、出てくる。

この映画では
トム・ハンクスが演じる主人公 フォレストと
フォレストの幼馴染であり
生涯にわたりフォレストが
愛し続けた女性、ジェニー

この2人がキーマンである。

色々、たいへんなこともありながら
フォレストとジェニーの二人は結ばれて
結婚し、息子も生まれて

けど、
ジェニーは愛する人、フォレストに
看取られて、亡くなる。

映画のラスト近くの重要なシーンだ

愛する妻を亡くしたフォレストが
愛する妻、ジェニーのお墓の前で
ひとり、ジェニーに向けて語りかける
ながいながい、独白だ。

少なくとも、作中において
ジェニーという女性は
時代や周りに翻弄されて
思い通りにならないことに
ずーっと悩み続けてきた人である。

フォレストは
ジェニーのお墓の前でいう、

「ねぇ、ジェニー
僕らは、
運命っていう巨大な力に支配されて
ただひたすら、それを
なぞっていくだけの存在なんだろうか?

それとも、人生とか運命って
自分のちからで切り開いて、
自分の努力で変えていくことが
できるものなんだろうか?」


こう問いかけた上で

「ちがう、両方、

両方のことが常に起き続けているんだ!」

と何かを悟ったかのように
フォレストは言う。
このセリフは私の人生において
非常に大きな影響を与えた。

また、ジェニーの墓前で
ポツリと、こう言う。

I miss you , Jenny.

青森高校1年生、1学期だったころの
私ならば、教科書どおり
「ジェニー、君がいなくて、僕はさみしいよ」

と訳すだろうが、高校生の英語としては
合格点をもらえるであろう。

あの時の映画の字幕は

「ジェニー、君が、恋しいよ」
で、あった。
そう言いながら墓前で
ハラハラと涙を流す主人公を見て
20歳そこそこの私は
とても胸をうたれたものである。

もう一つの
I miss you. は

映画後半に出てくる。

波乱万丈の人生を送りながらも
主人公フォレストは持ち前の誠実さとガッツで
成功していくんだけども、

そんな時に
「フォレスト、たいへんだ、オマエのお母さんが病気だぞ!」
と言われて
主人公は、すっとんで故郷へ帰る。

フォレストの母親は病魔に蝕まれて、もう助からない身であった。
そんな中でこの母親は「あなたの母親になれて幸せだったわ」
とか大切なことを今回の記事は

青森高校の現役の生徒向けに、個人的な話として。


まぁ、地方の進学高校の生徒さん、むけに。


私が県立 青森高校を卒業したのが

西暦 1994年 3月なので、

もう卒業してから30年が、たつ。


県立 青森高校の進学実績としては

歴代最強の44期生なので。


「昔は良かった」などという

くだらない回顧趣味の記事など書きたくはない。


今の子には今の世代なりの強みもあるはずなのだから

それを見抜いて、引き出して、活かしてやるのが

「先輩」である「歳をとった人間」の、お仕事である。


「私はこう思う」ということを書く以上

青森高校生のみなさんが

「私はそうは思わない」というのも

私は認める。


あくまで、一個人の話として書く。


おかげさまで、退院してから

もうすぐ2週間が過ぎようとしているが

予後もよく、体調はきわめて良好である。


人様の訃報(お亡くなりになった、という記事)で

涙を流すというのはあまりしない人間である。


そもそも、

葬式自体、


小学校4年生の時に 同級生が亡くなった時と

あとは実家の祖父母の葬式


の3回しか出たことがない。


お亡くなりになった、ときいて

ハラハラと涙を流したのは


私個人の話としては

南部陽一郎

イッセイミヤケ

そして

西田敏行


の3人しかいない。


実家の祖父母の訃報をきいた時も

自然と冷静であった。


戸籍上の父親にあたる人は

実家から自動車で15分程度の所にある

浪岡、樽沢、の

清野家であるが、


父方の祖父母に関しては


そもそも亡くなったことを

知らされていないし、ゆえに

通夜、葬式にも出ていないし


という、感じだ。


なので、私のことを冷血漢だと

思っている人らも、あちらには

たくさんいるだろうし、


それでいいと思っている。


南部陽一郎と、イッセイミヤケとは

面識があったけども


西田敏行とは

テレビとか、映画館とか、舞台の上で

観客としてみてるだけの立場であって


「なぜ、西田敏行だけ?」というのが

私個人の中にもあった。


そしてそれを延々と考えていて、一つの結論に達して

「あぁ、そういうことか!」と、勝手に独りで

納得していた。


理由としては、大きく2つ


・亡くなった時のタイミング

・そこから浮かび上がってきたこと


この2点である。


割と

「死んでてもおかしくなかったんだよ、アンタ」

という状態で救急車で病院に

運ばれてきて、


なんとか生きながらえて、退院しているわけだが


3周間の入院生活の間に


・大山のぶ代(ドラえもんの、声優さん)

・ピーコ(オネエさんのファッション評論家)

そして

西田敏行、と

週替りで、訃報をきいたのは

やはり、こたえた。


「虫の知らせ」というのがある。


「もうすぐ、この人が亡くなるよ」

という時の直前に

なにかの兆候が出てきて

あとになって「あ、これか」


と本人が気づく、というものなのだが


私の場合

49年間生きてきて、この

「虫の知らせ」をきいたのは


萩原健一

西田敏行


この二人だけである。


フツーに過ごしていたのに


なぜか「傷だらけの天使」のテーマを

吹きたくなって

サックスかかえて

近くの運動公園で、割と一心不乱に

練習して吹いてたことがあった。


楽譜もっていないんで

完全に耳コピーなんだけども


「傷だらけの天使っすか?」

「それ、いいっすね!」

とか、通りすがりの人たちからも

好評をいただいて

まんざらでもない気持ちでいた

所に届いたのが


萩原健一の訃報であった。

あの時は泣かなかったけど。


そして2つ目の「虫の知らせ」は

西田敏行のとき、である。


私自身、救急車で病院に運ばれてきて、最初は


・尿道にカテーテルつっこまれてて自分でオシッコも出来ない

・左腕には始終、ぶっとい針で点滴打たれている


という、大変、不都合な状態からスタートの入院生活であったが

・尿道へのカテーテルも、はずされて

・点滴による治療も、一通り、おわって


あとは病室で寝っ転がって3食たべながら

食後に処方されたお薬を飲むだけ


という生活になり


朝6時から夜9時までは同じ階の

談話室(テレビもある)で

自由に過ごせれる、という生活だったので


これはこれで気に入っていたのだが、


いつものように、談話室で

東京大学の入試問題を解いていたら


談話室の中央にあるテレビ

当時は昼の情報番組が


「たった今、はいってきた緊急情報です。

本日、正午ごろ、俳優の西田敏行さんが

自宅のベッドの上で冷たくなっていたところを

付き人の方がみつけ

その後、駆けつけた警察によって

死亡が確認された、ということです」


私自身なんぞは入院中で

死にぞこない、ながらも

なんとかなっている状態であり

やはり、ショッキングな訃報であった。


彼に関する、私にとっての「虫の知らせ」としては


入院中に、あれこれ世話してくれてた友人から、


彼:

「おい、知ってるか?

屋根の上のバイオリン弾き、

来年の3月、市村正親がテヴィエで

やるんだってよ!」

私:

「明治座で、かぁー!

こりゃ観にいかないとな!」


という

話をきいた当日に、この訃報、である。


青森高校生むけに少し解説を書く。


ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」は

アメリカ、ブロードウェイで大ヒットした

ミュージカルであり、映画化もされている。


舞台は現在のウクライナ。

そこに住む、貧しい

ユダヤ人一家の物語である。


あらすじを簡単に説明すると


貧しいながらも酪農家、そして牛乳屋を

営んでいるユダヤ人のテヴィエは

奥さんには頭があがらないものの

5人の娘を育てている。


そろそろ、結婚適齢期に入る

3人の娘には

父親として、それなりの相手と結婚して

幸せになってほしいと思うのだが、、、、


そうはいかない。


3人の娘たちは

それぞれ、自分が好きになった相手を

見つけてきて

「パパ、ママ、わたし、この人と結婚したいの!」


と、それぞれが

わがままなことをいい

それぞれが

かけおち同然で結婚し別れてゆく。


敬虔なユダヤ教徒としての父親テヴィエとしては

「そんな勝手なことなど許さーん!」と

怒りたいところだが


一人前、といってよい年齢になった

娘たちが、自分たちの

生涯の伴侶を見つけてきては


各々が

「私、この人と結婚して家庭を持ちたいの!」と

真剣に訴えられては


父としては

悩ましい限りである。


「家父長としての父親の言うことがきけないのなら

オマエとは絶縁だぁーー!」と

娘らを突き放すこともできるのだが


娘たちの幸せな未来を

応援したい父親としては

娘たちが自立し、自分の人生を自分で切り開いていこう

とするのも応援したい。


テヴィエは

父親として、この両極端な選択の間で

もがき苦しむのだけども、


やっぱり最後は娘たちの幸せを祈って

娘たちの選択を尊重し

娘たちの門出を祝うことを選ぶ。


三人とも全く別の職業の男と結ばれて

ここ、ウクライナからは

去っていく。


おそらく、もう生涯、娘とは会うこともできないだろう。


なぜならば、その頃

ロシアが

「どうもロシアはウクライナに住んでるユダヤ人を追い出すらしい」

という噂がユダヤ人コミュニティでも広がっていたからだ。


年老いた夫婦である

父 テヴィエ 母 ゴールデ

ではあるが、娘たちの結婚を祝い

そしてウクライナから出ていけ、と

いわれて、ウクライナから出ていくことを選ぶ。


残酷な言い方をすれば、

とあるユダヤ人一家が


家庭崩壊してバラバラになり

年老いた両親は長く住んでいた

土地を追放され、離れていく、


という、おもーい話だ。


ユダヤ人の大統領をもつウクライナが

ロシアと戦争している現状を見ていると

色々と考えてしまうのだけれども、

タイムリーな話でもある。


日本に限っていえば、

「英語の歌詞を日本語の歌詞になおして」

「それでむりやり、向こうのリズムで歌って踊るだなんて」

というのが、

それまでの「ミュージカル」という

分野に対する日本人の評価であって

そういう先入観をひっくり返したのも


「屋根の上のバイオリン弾き」であった。


日本での初演は1967年

テヴィエ役が森繁久彌

ゴールデ役が越路吹雪

で、帝劇で行われた。


大ヒットした。


森繁久彌は約20年間、900回も!

テヴィエを演じ続けた。


これまで日本での

屋根の上のバイオリン弾き、で

テヴィエを演じた俳優は


森繁久彌

上條恒彦

西田敏行

市村正親


の4人だけ。


市村正親さん も 素晴らしい俳優なのは

まちがいない話であって


来年3月の彼の舞台は是非、観にいくと思う。


ただ、それとは別に

これは私のスケベ心なのだけれども

「西田敏行のテヴィエをもう一度、観たい」


と思っていた、その日に

西田敏行の訃報をきいたわけでして、


「あぁ、もう西田敏行が舞台の上でテヴィエを演じてるのを

自分が観るのは無理なんだな」という現実をつきつけられると

はらはらと、涙が出てきた。


入院中でありながら、

「オマエも、いつかは死ぬ身なのだ」という

ごく当たり前の現実を突きつけられたのも

しんどかった。


私が青森県立 青森高校へ入学したのが

1991年で


高校1年生の1学期の英語の授業で


When he was young , he was idle.


これは英文法の授業だったと記憶している。

(当時の青森高校の英語授業は

英文解釈と英文法とでそれぞれ独立していた)


この文を

「彼が若かったとき、彼はアイドルだった」

と訳そうものならば

英語教諭は顔を真っ赤にして激怒したものであった、


「バッカモーン!日本語で使われているアイドル

小泉今日子が歌っている

なんてったってアイドル、のアイドルは

idol と表記するんじゃ、ヴォケ!!

しかも idol は名詞じゃぁあああ!!!」


と、まずは怒鳴られる(汗)


「idle は形容詞で

怠けている、怠惰な、という意味じゃバーカ!!」


「オマエら、名詞と形容詞の違いも知らずに

セイコーに入ってきたのか!!このヴォケが!!」


いやー、入学して高校1年生の4月でこれ、だから

正直、「とんでもない所へ入学しちまったな」

と思ったものである。


I miss you.


これを訳しなさい、といわれて

「私はあなたに対して、間違いを、おかしました」

とか言おうものならば、

そこで英語教諭のブチギレ part2 である。


「バッカモーン!

間違い を意味する英単語は

ミスではなくて mistake ミステイク じゃー!」


「この場合の miss は

~がいなくて、淋しいと思う、

という意味の動詞じゃぁ!ヴォケ」


I miss you.

(私は)あなたが いなくて さみしかった


という意味じゃ、バーカ!


オマエら、動詞と名詞の区別もつかない

バカなのか、このヴォケが


ぐらいのことは

入学したての4月で言われた。


「入る学校、間違えたのかな?」と落ち込んだな(汗)


I miss you. 

には、思い入れがある。


映画 フォレスト・ガンプ 一期一会 では


大事な場面で

このセリフが2度、出てくる。


この映画では

トム・ハンクスが演じる主人公 フォレストと

フォレストの幼馴染であり

生涯にわたりフォレストが

愛し続けた女性、ジェニー


この2人がキーマンである。


色々、たいへんなこともありながら

フォレストとジェニーの二人は結ばれて

結婚し、息子も生まれて


けど、

ジェニーは愛する人、フォレストに

看取られて、亡くなる。


映画のラスト近くの重要なシーンだ


愛する妻を亡くしたフォレストが

愛する妻、ジェニーのお墓の前で

ひとり、ジェニーに向けて語りかける

ながいながい、独白だ。


少なくとも、作中において

ジェニーという女性は

時代や周りに翻弄されて

思い通りにならないことに

ずーっと悩み続けてきた人である。


フォレストは

ジェニーのお墓の前でいう、


「ねぇ、ジェニー

僕らは、

運命っていう巨大な力に支配されて

ただひたすら、それを

なぞっていくだけの存在なんだろうか?


それとも、人生とか運命って

自分のちからで切り開いて、

自分の努力で変えていくことが

できるものなんだろうか?」


こう問いかけた上で


「ちがう、両方、


両方のことが常に起き続けているんだ!」


と何かを悟ったかのように

フォレストは言う。

このセリフは私の人生において

非常に大きな影響を与えた。


また、ジェニーの墓前で

ポツリと、こう言う。


I miss you , Jenny.


青森高校1年生、1学期だったころの

私ならば、教科書どおり

「ジェニー、君がいなくて、僕はさみしいよ」


と訳すだろうが、高校生の英語としては

合格点をもらえるであろう。


あの時の映画の字幕は


「ジェニー、君が、恋しいよ」

で、あった。

そう言いながら墓前で

ハラハラと涙を流す主人公を見て

20歳そこそこの私は

とても胸をうたれたものである。


もう一つの

I miss you. は


映画後半に出てくる。


波乱万丈の人生を送りながらも

主人公フォレストは持ち前の誠実さとガッツで

成功していくんだけども、


そんな時に

「フォレスト、たいへんだ、オマエのお母さんが病気だぞ!」

と言われて

主人公は、すっとんで故郷へ帰る。


フォレストの母親は病魔に蝕まれて、もう助からない身であった。

そんな中でこの母親は「あなたの母親になれて幸せだったわ」

とか大切なことを伝えて死んでいくのだけども、

ここで青森高校生に向けて、ひとつ。

I am going there now.
だと、これは現在進行形の文で
「私はいま、そこへ向かっているところだ」
という意味。

I went there yesterday.
だと、これは過去形の文で
「私はきのう、そこへいった」
という意味。

I will go there tomorrow.
だと、これは未来形の助動詞willをつかって
「私はあした、そこへいくつもりだ」
という意味。


これが、青森高校へ進学したいと思っている
中学校3年生ならば
わかっていないと落第、な英語。

そして

I miss you.

これは青森高校1年生ならば
「あなたがいなくて、僕はさみしい」という
意味である。

ここまでは説明した。

では、青森高校生むけに問おう、

I will miss you.
では、どうなるのか?

I miss you.

I will miss you.
との違いは?

これは青森高校の2年生ぐらいであれば
ちゃんと説明できないといけない。

映画 フォレスト・ガンプ では
主人公 フォレスト の母親が
自分はもう長くは生きられないと
自分でも、わかっていて
我が息子に

I will miss you.

と言っている。

この違いが、わかるだろうか?

「あなたがいなくて、さみしい」ではなくて
「あなたとは、もうあえなくなるかと思うと、さみしい」

これが
I will miss you. 
の意味である。

・死にゆく人が大切な人に向けて言う

・死んだ人に対して、のこされた人が言う

この2パターンしか通常はありえない。

映画、フォレスト・ガンプでは

死にゆくママが息子に対して

I will miss you , Forrest.

これを
青森高校2年生当時のワタシが和訳するならば
「フォレスト、あなたにはもう、
会えなくなるのかと思うと、さみしくなるわね」

でも、英文法としては
まぁまぁ、合格点をもらえるんだろうけども、

映画での字幕では

「フォレスト、いつでも、アナタのことを思っているわ」

であった。
これには青森松竹で観ていて泣いた。
敗けたなぁ、と思った。

この記事はセイコー生向けとして書いている。

青森高校の現役生ならば、
この程度のことぐらいは
お茶の子さいさいで理解できるようで

あってほしい。

惜別の言葉として

私が西田敏行に
一言いうならば

やはり

I will miss you , Mr. Nishida.
You are great.

ぐらいか。

宮崎駿のアニメ映画「ハウルの動く城」というのがあって
主題歌は倍賞千恵子が歌う「世界の約束」
作詞は谷川俊太郎

あの歌のラストでは歌詞が

思い出のうちに
あなたはいない

せせらぎの歌に
この空の色に
花の香りに

いつまでも

生きて


とあるが、
これは「あなたがいなくて、さみしい」ではなくて

「あなたは、私の心の中で生きています」

と解釈すべきであって、

セイコー生にはこの程度のことぐらいは
高校生にもなったら
理解しておいてもらいたい。

大切な人がなくなって

お別れの言葉が

グッド・バイでは
ありきたり、すぎる。

セイコー生ならば

I will miss you.

ぐらいは言えるようであってほしい、

そんなことを
ふと、思った。



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