ピアとか仲間とか
ピアサポートに関する研修資料を少し読んだ時、「リカバリーにはピアサポートが不可欠だ」とかなんとか書いてあった。
正直、こんな価値体系・信念体系があるのかと驚いた。
セルフヘルプグループやピアサポートの文脈で「同じ障害を経験しているから深い共感が生じる」とよく言われているのですが、ぼくには今でもよくわからないのです。
以前どこかの場で、「リカバリーは成功体験みたいにキラキラしがちだけど、"絶望”とかそういうことを語ることも大事なのかもしれない」とか、そういう話題になったことがある。
ぼくがシンパシーを覚え付き合いやすいと感じるのは、恐らく「同じような境遇(ex. 家庭機能不全家族とか)を経験している」とか「同じ障害を経験している」よりも、「その人にとっての“絶望”あるいは“逆境”をどう生きたか」とか、「“絶望”をどう生きるか」みたいな姿勢の方をより重視しているような気がする。
最近、「心的外傷後成長」という概念を知った。
フランクルじゃないけど、人に“絶望”や“逆境”をどう生きるか?を問いかけてくるような概念だな、なんて思った。
以前、「研修資料にピアサポートがリカバリーには不可欠だって書いてあったんですけど、本当かなって思ってます」と口走って、他の人から「私はリカバリーにはピアサポートが必要だと思ってます」と切り返される場面があった。一種の「信念対立」ですね。
大学一年の時、あるおじいさん先生が言っていた。
「自分の問題意識を突き詰めていけば、その道の半ばで同じような問題意識を持つ仲間ができる」そういえば、同じようなことを岩波新書の『社会学』の冒頭で見田宗介も言ってたな。
従来のセルフヘルプグループ論の影響を引きずるピアサポート論においても、結局、当事者や当事者活動全般を社会資源や援助媒介と捉える傾向が強いだろうから、「同じ障害が深い共感を生んむから、わかちあいで回復していく」と語られるし、そもそもセルフヘルプグループ論の源泉は、アルコーホリックス・アノニマスなので、あの当事者グループを下敷きに理論化されてきている歴史もあるから、そりゃそうだよね、とも。
『当事者は嘘をつく』の中で小松原は、自助グループでのわかちあいを通じて、「共振」が生じたと言っていた。
自分も最近、同じような問題意識を抱く人との出会いや語りとかをふりかえって、ああ、あれが小松原さんが言っていた「共振」なのかもしれん?と思う場面があった。
ぼく個人としては「同じ障害」とか「同じ経験」をしてきた人を安易に「ピア」と呼ぶよりは、「“逆境”をどう生きるか」とか「“傷”を抱えながらどう生きるか」とか、心的外傷後成長につながるような生き方を選ぶ人たちで(あるいはそうでなくても)、同じような問題意識を持つ人たちの方にこそ、もっとつながっていきたいし、そういう「仲間」が欲しいんだよな~と思う。
そういう方向性の方が、研修資料が言うような「リカバリーにはピアサポートが不可欠」という価値体系を選ぶ(=入信する)より、むしろぼくにとってのリカバリーになるという確信がある。
絶対にそっちの方が楽しいし、ワクワクするじゃん。
てか、大学一年の時のおじいさん先生の言葉をふりかえって思い出したけど、10年以上前から、ぼくはそういう意味での「仲間」を欲し続けていたのだな~…という気づきでした。