関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語⑩
自分は母のことを人間として尊敬できずにいる。
どちらかというと、父親っ子だと思う。
しかし最近母と会った時、幼少期の原体験を思い出した。
幼稚園の送り迎え、当時は母が漕ぐ電動自転車に乗せてもらっていた。
帰り道、ぼくたちはよく幼稚園の近所にあった牛舎に寄った。
牛舎は、牧草や牛の匂いで充満していて、とてもいい匂いではなかった。
けど晴れた太陽とまわりの緑、牛舎と牛、そして自転車を漕ぐ母の後ろ姿。
牧歌的な風景…
自分の経験の中で最も「平和」に近い原体験だと思う。
そんな母が好きだった。
小1の頃、父に連れられ、学校を休んで長期でフィリピン旅行に行く際、ぼくは家や母から離れることが寂しくて泣いていた。たしかに、泣いていた。
その後、すこし物事がわかるようになったぼくは、我が家の混乱の「原因」は、母が信仰する統一教会のせいだと理解するようになっていった。
そこから、ぼくと母の関係はもつれた。
思春期もあいまって、こじれにこじれた。
安倍元首相銃撃事件から数か月後、両親の離婚が決まった。
とてもあっけなかった。
家庭裁判所に訴え出た父の要求をのみ込むことを、母は受け入れた。
詳しくないが、信仰の関係で母は絶対に離婚しないと思っていた。
だから、離婚調停がもつれた際には、自分も父側の証言者として出廷してもいいと思っていた。
「離婚」は、我が家にとって、とても「良い福音」になると信じていた。
大変だった状況や現実をだれ一人欠けることなく生き延びるために、障害者家族に匹敵するような凝集性ともつれこじれた関係性を構築せざるを得なかった我が家の人間にとって、「離婚」は、そうした関係性を一度清算させる効力をもつと思った。
ぼくは、自分が家のことでとても苦労したのもあり、5年ほど前から、「家族成員のためにも、家をぶっ壊さなければ」と思っていた。
我が家の中で築かれてきたシステムをぶっ壊さないと…!と思っていた。
安倍元首相銃撃事件と母の祖父母の遺産を全額寄付したことに端を発して、父は「母と離婚する!」と決めたようだった。よくわからないが、これはチャンスだとぼくは思った。だから父をけしかけた。
そしたら、あっさり「離婚」が決まった。
「離婚」が決まると、家のシステムに深くコミットし、システムの永続のために尽くしてきていた長女がまず壊れた。彼女は自分の子どもに虐待行為をしていた。兄弟のグループLINEにヘルプを出してきて、ぼくが3年間お世話になっていたカウンセラーに個人的に通いだすことが決まった。
40年、あるいは30年前、せめて20年前に「児童虐待」として発見され、危機的介入され、支援を受けていれば、姉はいまあんな苦労をせずに済んだのではないだろうか…。どうして誰もぼくらを「発見」してくれなかったのか…。偉そうに「専門性」を語り続けるソーシャルワークに対する不信が、ぼくの中で払拭される日は来るのだろうか…?
「離婚」が決まり、長女が順当に崩れた。
ぼくはその様子に圧倒され、実感をもてなかった。
母はなぜあんなにあっさり「離婚」を受け入れたのか。
きっと、協会側の入れ知恵があったのだろうとは思っているが
離婚後、実家を出て一人暮らしをはじめ、生まれて初めて経済的自立をしようとしている母の家でふたりで過ごした時、母はぼくに「本当はお父さんと離婚したくなかった」と言った。
その言葉はぼくの胸に深く突き刺さった。
家族の成員という「公共の福祉」の観点からは、明らかに「離婚」は、ショック療法を伴う面もあるとは思うが「良い福音」だった。しかし、母という個人の立場から見れば、「離婚」は「望まぬ結果」でしかなかったのだ。
その言葉を聴いたぼくは、しばらく"罪悪感"から母を気遣うようになった。
両親の離婚前後、ぼくは、「宗教二世」というワードが飛び交う世の中や「統一教会問題」というワードが人々の耳目を引いている期間、ニュースに極力触れないようにしていた。どうせみんな騒ぐだけ騒いで、ぼくやぼくの家族のことを助けてくれるわけでもない。
ぼくたちは、ニュースや世間の噂話やゴシップとして消費されるだけだ。
我が家に巣食う統一教会という「個人的問題」が、安倍元首相銃撃事件をきっかけに社会的文脈によって、本人たちの意思とは無関係に半ば強引に「政治的問題」にされてしまったような気分だった。
そんなのないよ、と、心底思った。
どうせ何もしてくれないんだから、頼むから放っておいてくれよ…。
しばらくそうやってふさぎ込んでいたが、次第に考えが変わっていった。
そしてぼくは、自分もそれこそ「語ることのできる当事者」として、できることややるべきことがあるかもしれないと考えるようになり、友人の新聞記者に取材してもらえるように連絡してみたり、伝もあり野党の国会議員にロビイング活動をしたりした。
今もって、「世の主流となっていると思しき宗教二世の当事者」たちと、見解や立場、考え方が全然違うことに戸惑ってはいる。
そうこうしているうちに、博士論文のテーマも知的障害者の地域移行に向けた支援付き意思決定のあり方に関する研究などではなく、宗教二世の立場に基づいた「当事者研究」をするべきなのでは?それが、自分の当事者性ど真ん中のテーマなのでは!?と思い詰めるようになり、実際に指導教員にも相談したりもした。
それくらい動揺させられた。
事件や「離婚」を経て、世の中も落ち着いてきた頃、ぼくは自分が何もできなくなっていることに気づいてきた。家にいる時にやることと言えば、YouTubeで動画をみるか、ネットゲームをするか…。「研究」なんてしたくないし、介護の現場に通うのもしんどくなってきていた。
自分に一体なにが起きているのか…、まるでわかっていなかった。
それでも、複雑性トラウマに関する本を読んでから、ちゃんと通おうと決めていたカウンセリングには極力毎週通い続けた。その度に、疲れただのやる気が出ないだの腐っていた。
仕事も研究も私生活も煮詰まってきていた2022年3月中旬だった。
2年来お世話になっているカウンセラーの言葉にハッとさせられたのは…。