関東在住の大学院生が福岡移住に至る物語㉒
オープントップバスに乗る際、700km離れた職場の関係で酷い目に遭った翌朝、ぼくは塞ぎ込んでいた。強い情動に駆られ、うまくコントロールできず振り回された結果、疲れ、自分の感情の扱い方がわからず、弱っていた。
弱っている自分を外界に曝したくなかった。
これは、高校の不登校時代から、もっと言えば「学年一位の学力という鎧」をまとうことで自分を保っていた中学時代からそうだったのかもしれない。
5月26日は、Kさんに誘われ、KさんとFさんが勤務している地域活動支援センターでイベントがあるからよかったら見に来て欲しいと連絡頂いていた。Kさんには事前に、「やそらさんが5月下旬に来るなら、いつ来てもらうのがいいかね?と職場のスタッフで相談して、26日のイベントの時に来てもらうのがいいかなって話になった」とメールで連絡をくれていた。
ぼくはそのメールをもらった時、「福岡に行く前から、自分のためにいろんな人が自分のことを考えて動いてくれている。自分を歓迎するために考えてくれている」と感激していた。研究や職場関係で疲れていたのだと思う。
そんなありがたいお誘いだったのにもかかわらず、26日の当日の朝、KさんFさんが待つ場に向かうのがとても億劫になっていた。うじうじしていた。
けどぼくは、Kさんと23日のおはなし会についていろいろ話したかった。
それに、いっそ、昨日の観光中に見舞われた現在の職場に関する鬱憤や愚痴をそのままそっくりKさんに聞いてもらえばいいのでは?相談に乗って貰えばいいのでは…?と考えるようになっていった。
そうやって気持ちや考えをなんとか切り替えて行って、どうにかこうにか外に出ることができた。そうやって宿から駅に向かい電車に乗って、最寄り駅からさらに歩いてKさんらが待つ地域活動支援センターへと足をのばした。
そういう施設に行ったのは初めてだった。
いろんな人がいた。おはなし会で見た顔ぶれもいたかも。
まず、小一時間ほど、Kさんとお話した。
「実は、昨日関東のいまの職場の関係でひどい目に遭って、今朝、ここにくるのがすごく億劫だったんですよね~…」
ぼくはとつとつと語り始めた。
前日、朝から大宰府に行ったこと、ガレを観たこと、福岡のお母さんに薦められていたオープントップバスに乗ったこと。バスに乗り込んだ時点で、職場のグループLINEであらぬ疑いをかけられ、とても嫌な想いをしたこと。それのせいで、今朝からとても気が重く、ここに来るのにも苦労したこと…。
Kさんは言ってくれた。
「やそらさんが見舞われた事態は、誰でも怒る場面だと思うし、僕だったら、怒りでバスの座席位蹴っちゃってると思うよ笑」
まずぼくは、職場の人間関係で嫌な想いをし、その件で大きく気持ちをかき乱された自分のあり方を肯定された、そんな心地がした。あんな風に情動でぐちゃぐちゃになっても別段、変ではない。割と真っ当なふつうの反応だと受け止めてもらえた。
Kさんは続けた。
「やそらさんはいろんな苦労をしているから、精神年齢が実年齢にプラス20歳くらいになっているところもあると思う。だから、すごい冷静に状況を分析して、それに対して的確にアプローチしてってできてると思う。僕はやっぱりやそらさんは、科学者だな~って思ってみてますよ」
「実年齢に精神年齢はプラス20歳」、「状況分析が得意な科学者」
職場の関係でくたびれ果てていたぼくに、予期せぬ自分自身に対するポジティヴなフィードバックが届いた。後者はたしかに、そういう部分はあるかもしれない。自分としても割と受け入れやすい評価ではあった。けど前者は…笑。ぼくの精神年齢が50歳位だとしたら、Kさんとほとんど変わらない感じになってしまう。マジか…。未だにぼくはKさんからのこの評価を完全に自分のモノとすることができずに、棚上げしたり、時折掌の上にのせてしげしげと眺めてみている。
後日姉(長女)にこの件を話すと、「ウケる笑、プラスじゃなくて、マイナス20の間違いなんじゃないの笑笑」と言われた。そう言われて、内心ぼくもホッとしたところがあった。自分もどちらかと言えば、姉と同じようなまなざしを自分自身に向けていたところが強かったからだ。それでも、Kさんから見えているのであろうぼく自身、Kさんの感性やモノの見方を尊重したいと考えていたぼくは、姉の指摘に安心したのと同時にこう言い返した。
「実際ね、精神年齢が10歳位な部分もあると思うけど、ぼくは多分、特に発達の凹凸が激しいからさ、発達している部分は50歳位に達している部分もあるのかもしれないなって、そんな風に初めて自分のことを捉え返すきっかけになったよ。福岡にはそんな風にぼくにポジティヴなフィードバックをくれる人がたくさんいるんだ」
その話を聴いた姉はぼくが、実家や今まで従事していた自立生活運動を離れ、福岡に移住しようと思っているという話を応援してくれた。
Kさんはさらにこんなことばをぼくにかけてくれた。
「今後、やそらさんが本当に福岡に来るなら、やそらさんのそういう客観的な分析やアプローチは本当にすごいと思っているから、一緒に何かできるのを楽しみにしています」
福岡には、ぼくのことを待っていてくれている人がいるんだ。
片や、関東の現場では周囲の介護者から軽んじられ、ポジティヴな自己イメージを形成しづらい中にあるというのに…、福岡ではぼくを必要としてくれている人たちがいる!関東の現場や研究を通して疲れ果てていたぼくにとって、Kさんのこのような真っすぐなことばは、骨身に沁みた。
Kさんとの面談を終え、センター内をふらついていると直にFさんが司会を務める音楽会の開催時間になった。発表者を含めても10人少しが集まるささやかなイベントだった。
開会の冒頭、Fさんはぼくに話題の矛先を向けてきた。
「今日は東京からやそら先生もきてますので、閉会の際に是非感想をお話してもらえたらと思います」とかなんとか。これでぼくは、終わりのタイミングにそれっぽい気の利いたことを言わねばならなくなってしまった。中学時代の生徒会活動の関係でも、報告をした人らに向けて何か気の利いたコメントをつけてから、次の方どうぞと司会進行をやらされてのを思い出した。そういうのは苦手だ。
本当は思ってもないことも言わないといけないプレッシャーがある。
かくして次から次へと皆が自由に発表していく。
ある若い女性はアイドルグループのコピーをしてみたり、自分で作詞作曲した歌を弾き語りする人がいた。そしていよいよ最後にFさんの番になった。
Fさんはギターを持って悠然と「川の流れのように」を歌い始めた。
ぼくには大学時代、全盲の友人がいた。
もともと先輩だが、演習がきっかけで親交がはじまり、障害学生支援室を通じて、彼の支援者として関わった時期もある。彼は在学中に発症した脳腫瘍が原因で失明し、ぼくと知り合って2、3年後には亡くなってしまった。
亡くなって以後は勝手ながら「親友」だと思っている。彼は、死の病に冒される境遇にありながら、ぼくの身に降りかかり続けてきたさまざまな出来事について、ぼくから話を聴く中で面と向かって泣いてくれた人だった。
彼は生前、ぼくと一緒に彼の部屋で過ごす時に弾き語りをしてくれた。
ぼくからリクエストしたからだろうか、Mr. Childrenの「花ーmemento mori」という曲を弾き語りしてもらった記憶が、ぼくの脳裏にはこびりついている。今でも情景を思い出せる。
どうしてかわからないが、Fさんの弾き語りの姿は、亡くなった全盲の友人の弾き語りの姿と重なった。
「知らず知らず歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生」
恐らく、精神病を発症してから、さまざまな苦労をしてきたのであろうFさん。そんなFさんは、この歌をどんな想いで歌っているのだろう。
「生きることは旅すること 終わりのないこの道 愛する人そばに連れて 夢探しながら 雨に降られて ぬかるんだ道でも いつかはまた 晴れる日が来るから」
やたらと亡くなった友人の姿と重なるFさんの弾き語る姿に、ぼくは落涙しそうになっていた。いま、こうして、福岡に来ている自分の姿もまた、この川の流れのようにの歌詞に重なる部分があって、感情が溢れた。
「ああ川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい ああ川の流れのように 移りゆく季節 雪解けを待ちながら」
Fさんは、12月のぼくの文化下での報告の際真っ先に質問をぶつけてきた人だった。
「やそらさんはピアスタッフはやらないけど、研究者は名乗るんですか?」
事前にFさんが「ピアスタッフ」という立場で大会の実行委員のひとりとして従事していることを聞いていたぼくは、Fさんのこの質問が事実上、精神病を発症して以降、まともな就職口として考えられるのが、おそらく時代背景的にも「ピアスタッフ」しかなかったのではないだろうかと思われる、そのような社会的状況の中で、「Fさんにとっての最善の選択肢のひとつ」としての「ピアスタッフ」というものを、やむにやまれずとは言え、一蹴し、あくまで「当事者研究者」を名乗るぼくに対する違和感を突き付けられたのだと手前勝手にだが、自分なりにFさんの質問の背景をそのように汲んだ。
ぼくの倍くらいの時間を生きていそうな方からの実存を賭けた問いだと、ぼくは直感していた。だからぼくとしても当時、どうして自分が「当事者研究者」しか名乗れないのか、誠実に言葉を尽くして説明したと記憶している。
けど今もって、あれでよかったのかと自信がない。
立場が違うのだ。わかり合えないことから、始めるしかないではないか。
ぼくだって別に好きで「当事者研究者」なんて、めんどくさいポジショナリティを取っているわけではないのだけれども…。しかも、不遜にもFさんの前で「研究者」を名乗ったくせに、その後のぼくの「研究者としての実績」は皆無だ。恥ずかしかった。Fさんの生をある面では貶めるか、踏み台にして「当事者研究者」を名乗ったくせに、何もできていない。
そんな自分はなんなんだ…?
そんな自分が情けなく、けど、今後の生きる道や研究の手がかりを探して、暗中模索の中での福岡訪問だった。そこで、図らずもFさんから「やそら先生」などと、「先生」呼びをされてしまった。ぼくは激しく動揺していた。
どうしても気になったので、発表会の後Fさんに「どうして先生って紹介してくれたんですか?」と聞いた。Fさんの返事はさっぱりしたものだった。
「やそらさん、貫禄があるから」
ぼくは再び遭遇した予期せぬ、ポジティヴ(?)なフィードバックに笑いを禁じえなかった。最近、すこし肥ったからかしら?などと本気で考えた。
けど、「貫禄がある」と整体師に言われた「福岡へは対局ですか?」とKさんに言われた「精神年齢プラス20歳」というのは、どれも関連性があるように思われた。自分には見えていない自分自身のある側面が、この人たちには見えている。それはその限りにおいて、実在する像なのかもしれない。
ぼくは、いままでになかったポジティヴな自己イメージに関するフィードバックを、とりあえず抱えたり、背負ったりしながら、一体化するのは本人が納得してないから全然無理だけど、生きてみようと思うようになった。
福岡のお母さんやFさんを知る周囲の人々に言わせると、Fさんという人にはあまり悪意というものがなく、思ったことをポーンと言い放つところがあるらしい。実はFさんは、テーブルこそ違えど、2月の打上の際、ぼくの隣に座っていた人物でもあった。ぼくとFさんの間には、非常用の梯子みたいなものが置かれていて、お互いの視界にはふつうにしていれば入らないようになっていたのだけれど、12月当日の分科会の話が盛り上がっていたタイミングでFさんも話に入ってきてくれた。
そこでぼくは、「いや本当にあのFさんの質問は、すごい今でも自分の中で響き続けていて、一番重たい質問だったという風に思ってますよ!」とお酒の勢いもあって、啖呵を切っていた。FさんもFさんで笑いながら、「なんか本当に素朴に気になってしまってね~。なんでピアスタッフ名乗らないんで、研究者名乗るんだよって。けどたしかに今考えれば、キツイ質問だったかもしれんね~笑」などと茶目っ気を含めて言っていた。
分科会の場だけでの出会いや交流だけだったら、全然見えてこなかった、わからなかったFさんという人物に対する印象や諸々に触れることができた瞬間でもあった。その時もやっぱりぼくは、改めて、2月の打上のためににわざわざ福岡に来てよかったなと実感していた。
12月の報告で不遜にも「ピアスタッフ」を退け、「研究者」を名乗り、「ピアスタッフ」として長年生きてきたFさんを刺激したぼくだったが、自分の闘いが終わったことを実感した3月以降、研究に対するモチベーションが消えうせ、新年度を迎える頃などは、「自分のいまの状態は大学院にいるべきではないメンタリティや状態だと思う」と指導教員に真面目腐って相談していたりしたのだった。
次の投稿では、5月の福岡滞在の最終日前後のことを記す前に、一度話を3月以降のぼくと研究との関係に戻してみたいと思う。
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