「幸せになってね」と祈られる件について
最近仲良くなった人に「やそらくんがどうか幸せであってほしいなと素直に思うよ」と言われた。
30歳で「楽しく、幸せに」生きる!と決めて足掻いている最中だけど、冷静に考えてみると自分自身が「幸せになりてぇよぉ〜!!」と思ったり、叫んだりする総量よりも、いままで関わってきた身近な他者に言われたあるいは願われた「やそらが幸せでありますように」という祈りや願いの総和の方が多いんじゃね?と思った。
今までの自分だったら、そんな風なことを伝える人に対して「あんたの方がより自分よりも普通な人生歩んでるだろうし、羨ましいな畜生〜…」と恨めしく思うところが少なからずあったような気がする。
その友人に、「まずは周囲の人たちからのそういう言葉や想いを素直に受け取れるようになるといいね笑」と言われた。
母が「人は幸せになるために生まれてきたはずだ」とか言っているのを聞くと、言い知れぬ気持ち悪さと居心地の悪さを覚えた。
母が「親はいつでも子どもの幸せを祈ってる」とか言ってるのを聞くにつけ、頭では母の親としての気持ちに理解を示す一方、心のどこかでそんな母の「祈り」が「呪い」や「呪縛」のように感じられてしまう部分があったのも否めない。
福岡で少し親しくしたけど、いろいろあってこちやから距離を置いている躁鬱病の方が「僕らの周囲にいる人は皆何かしら病気や障害持ってるし本当の意味で幸せな人っていないんじゃないかな」と言っていたのを思い出す。
自分の人生に負けそうな時はいくらでもある。
投げ出したい時だってあるし、過去を全部捨て去りたい気分になる時だってないわけじゃない。
けどぼくは心の中で、いつもどこかで思っている、あるいは信じていることがある。
「訳わかんなくて生き抜くだけでも大変でしんどい人生だけど、ぼく自身としてこの世界に生を受け、それを引き受けて自分の人生を最大限味わい尽くせること自体がある面では幸せなことだし、祝福されてるような心地や実感もあるんだ」と。
福岡に来てからも、福岡のお母さんなどには上記のようなことをメールで話したりもしたものだ。
いろんな人が様々な場所で生きて生活している。
ぼくは何よりもまず、ぼく自身の人生に対する応答責任を果たすような生き方を志向しているのかもしれないと、この文章を書いていて気づいた。
母のそれも含めて、「幸せになってね」という祈りや願いに応えることができるかどうかはわからないけれども、とりあえず一度ちゃんと受け取ってみようと思う。そして例によって掌の上に乗せてしげしげと眺めてみようかと思う。