⑨~自己物語/自分自身を開くことに伴うリスク管理~
自分のことを赤裸々に書いていると、たまにアクシデントに見舞われる。
最近、Aさんから告白されたのもそうしたアクシデントのひとつだった。
Aさんに想いをぶつけられていた時、ぼくはぼんやりと想起していた。
はて、この感じ最近どこかで違う形で起きたような…、デジャヴ??
最近はnoteがメインでめっきり更新頻度が落ちたが、ぼくは以前はFBに公開日記を書き続けていた。そこでは家族関係にまつわるあれこれや、生きていく上での葛藤やらその他ぼくの日常にまつわる悲喜こもごもを綴っていた。
ぼくには高校二年の時に席が隣になったのが縁でよく絡んでいた人がいた。
その人とはFBで主につながり続けていて、どうも彼は高校在学中に統合失調症を発症して、入院や多浪の末、大学に進学。たしか今も大学生?かな。
その人とは高校卒業後、おそらくせいぜい3回位しか会っていない。
昨年、ある自主勉協会の結成を契機として、彼と同じコミュニティに所属する機会ができた。精神障害とかある人とかでも参加してもらおう、みたいなコンセプトがあったので、それなら自分の周囲の人間の中でなら、彼がいいかなと、その集まりに彼もハマればいいな~位に適当なノリで誘った。
その後、彼はその自主勉協会を通じて、ぼくにいろんな想いをぶっつけてくることとなった。
勉強会の自己紹介ページのようなものを作ったのだが、そこで彼がぼくとの関係を熱弁したのだ。
「やそらは死にかけたことがあるらしいのですが、今度彼がそんな風に追い詰められた時に、僕は彼の力になりたいと思っています。そういう時に力になれるのが本当の友人だと思うからです。今回、自主勉協会にやそらに誘ってもらったことをきっかけに僕は、やそらと出会いなおしをしているのだと思っています。」云々…
ぼくはたまげて、困惑し、慄き、事態の把握に努めようとした。
ぼくの公開日記をFBでつながっていたために、ぼくの日常において何が起きていたのか、そうした日常や人生を通してぼくが何を考え、どう生き延び、これからどうやって生きていこうとしているのかなど、「一方的に知ることのできる立場」にあった彼は、ぼくがおおっぴろげにしていたぼく自身やぼくの自己物語に触れたのをいいことに、ひさしぶりの再会(といってもオンライン上の交流だったけど)を通じて、ぼくに対して「我、汝と熱い友情を契らんと欲す!!」といきなりその欲望を叩きつけてきたように感じた。
ぼくにはそんなつもりは一切なかった。
彼は発症前後に本当はやりたかったけどできなかったことを、「高校時代の友人」であるぼくとの関係に縋ってやり直そうとしているように見えた。
まがいなりにも社会生活を送り、修論も書き上げ、三福祉士も取り、博士課程に在籍し、障害者福祉分野で働き経済的にも自活していたぼくから見れば、入退院を繰り返し、当時も大学を休学し、デイケアなどに通所していた彼はあまりに弱く脆く、庇護や支援の対象でしかなった。
ぼくが「目下の存在」と内心思っていた相手から、「高校時代のつながり」を盾に、彼は強引にぼくの物語における「主要な登場人物」になることを欲し、その欲望をぶっつけてきた。今となってはそんな風にも冷静にとらえ直すこともできるけど…、本当に当時は大変だった。
当時の混乱やそれを通して、どんな結論を導き出していったかは、2023年1月11日にFBで文章にしていたので、それを以下に引用しておきたい。
最近、人に絡まれた。 曰く、「なんでも話せる友達になりたい」「困っている時に力になりたい」「将来、こんな研究者になってほしい」etc. ぼくは人との関係性に名前を付けるのが好きじゃない。 名づけによって、関係性が固定してしまうように感じるからだ。 その人は、「統合失調症」という診断を受けている人だった。 一応、高校時代クラスメイトではあったのだが、特段大きなつながりがあった訳でもなく、10年ぶりに交流が始まった矢先のことだった。 ぼくはメッセージ上で「自分の欲求」をぶつけてくるその人を見て、しばしば困惑した。 ぼくにとってその人は「高校のクラスメイト」でしかないのに、彼はぼくに対して、「熱い友情」を契らんと欲して詰めてくる。 「誰」?「何」?と困惑した。 ぼくにとって彼は、「高校のクラスメイト」か「統合失調症の当事者」に過ぎなかった。彼にぼくは何も求めていない。第一「なんでも話せる仲」とか気持ち悪いと思ってしまう自分がいた。 「困っている時に力になりたい」と言われても、彼は未だに症状が安定せず、入退院を繰り返し、大学に在籍しながらデイケアに通っているような状態だ。ぼくから見れば明らかに彼の方がバルネラブルな存在であり「支援」が必要だ。ぼくは自分が困ったとしてもそんな彼にヘルプを出そうとは、到底思えない。 「将来、こんな研究者になって欲しい」にしても、それは「統合失調症の当事者」としての彼の「当事者研究者」を自称するぼくに対する希望であり、要望なのだろうか?それならまだ話はわかるけど、「高校のクラスメイト」に過ぎない彼からそんなことを言われてもぼくはただただ戸惑う。 君は「誰」で、ぼくにとって「何」なんだ…? そんな困惑をもたらした彼は、さらにぼくを追い詰めた。 ぼくと「なんでも話せる仲」になりたいと宣う彼は、宮台真司教授の襲撃事件の話を知れば、「犯人お前だろ」と言ってきたり、所用で新聞社に行く用事があると話せば「何しにいくんだ?火炎瓶でも投げるんか?」と聞いてきたのだ。 ぼくはこの冗談の意味がわからなかった。この人はなんでこんなことを言うのだろう?と理解不能だったが、意味が分からないなりに理解しようと努めた。それがぼくのいつものやり方だった。 「クリスマスの予定はあるんか?俺は虚無やで」などとダル絡みされた際も、めんどくさいと思いながらも一応律儀に応答しておいたら、後になって、共通の知り合いに全部筒抜けにしていたことがわかった。 ぼくからすれば、あまりにも彼は言動の不一致がひどすぎる。 自分なりに理解しようとしたが、自分のキャパを超えていた。 ぼくは彼をぼくには「理解不能」と見なし、個人的なかかわりは断つことに決めた。
Aさんやこの高校時代のクラスメイトとの再会(?)を通じて、自分は自己物語を開いていく上でのリスクのようなものを考えるようになった。
今後もこういうことは起きるのだろう。
けど、基本的にはこの二つのケースを教訓として、今後はもうすこしうまく対応できるようになっていきたいな、そう思う今日この頃です…。
具体的な対策やら対応策については、行き当たりばったりですね!
ただ、今までほど、そういうアクシデントに見舞われても思い悩んだり、そこに時間やリソースを割く余裕はなくなっていくだろうな~という漠然とした予感はある。そういう余裕がなくなることがあるいは、一番の対策なのかもしれないな、とは思っている。
Nさんのこともあるので、今後異性関係は特に気を付けたいと思っている。
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