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前歴 反省しない人の特徴 大衆無謬論とソ連の農地の国有化

1、前歴
前科とは、犯罪をして、警察の捜査対象になり、立件されて、刑務所へ服役した事。
前歴とは、犯罪をして、警察の捜査対象になったけど、刑務所に余裕がないから服役されなかっただけ。
どっちみち犯罪者に変わりはない。

前歴者は、警察や刑務所の予算の都合で、刑務所へ服役させる余裕がなかったから、逮捕や入所されなかっただけ。
もし、予算が二倍三倍あれば、普通に逮捕されて刑務所に入れられていた。
世間は、前歴者を「もし予算が有れば刑務所へ入れられていた人間」と判断している。

世間の前歴者に対する考え方は、かなり強めだから、逮捕されていないとか、服役していないとか、そういうのは通用しない。
犯罪者として扱う。
そういう世間の考え方に対して、前歴は大した事がないと世論操作を仕掛ける人間が存在する。
他人の気持ちや考え方を口先だけで変えられると思っているから、軽々しく犯罪をするのだろう。
前科や前歴を甘く考えるから、軽々しく犯罪をする。

犯罪者側の弁護士は、前科や前歴を大した事がないモノと言い張るけど、弁護士も悪徳弁護士が存在するから、弁護士の言う事だからといって妄信してはいけない。

2、反省しない人の特徴
ある動画投稿者は逆恨み気質だし、ファンも似たような逆恨み気質の人間が多い。
動画投稿者は、婚外性交で何人もの女の人生を潰しておきながら、人前に出て、他人の批判で金儲けをする。
普通、自分が悪人なら、人前に出ない。

この投稿者の毒母は、息子を叱るという矯正をしないどころか、一緒になって女叩きをする。
自分が息子を犯罪者に育ててしまった事実を受け入れないで、被害者の女を叩く。
毒親が自分自身の犯罪を受け入れないから、息子も自分自身の犯罪を受け入れない人格になってしまう。
正常な神経をした親なら、息子が悪行をしたら叱る。
こんな毒親だから、息子が結婚できなくて、悪行を積み重ねる。

まず、婚外性交は悪行だと認識すべきである。
しかも、何人もの女の人生を台無しにしている自分が悪人だと自覚すべきである。
婚外性交をした上に、結婚しないと、女は誰とも結婚できなくて人生が終わる。ただ、神を知る前に誰かと結婚して、子供ができて何十年ほど経ってから、神を知って反省して立ち帰れば赦されて天国へ入れる。
逮捕や服役にならなければ悪行ではないと思っているのだろうか。そういう考え方だから、軽々しく犯罪をするのだろう。
服役にならないのは、警察と刑務所の予算が少ないから服役にならなかっただけで、前歴で犯罪者扱いだし、道義的にも悪人である。

交際相手に加害をした癖に、女に逆恨みをする。
刺されたとか言っているけど、その前にパワハラばっかりしているのだろう。
他の女に逆恨みをしているような気質なら、そういう犯罪をする。
逆恨みをしている人間は、どこで周りの人間に加害しているか判らない。

普通の神経をしていたら、前歴を持っているのに人前に出ようなんて思わないし、悪人なら人前に出ようと思わない。
人目についてはいけない人間だと自覚するからだ。
それなのに人前に軽々しく出るのだから、そんな神経だから犯罪をしてしまう。
犯罪をしても何のペナルティーもないと思っているから、軽々しく犯罪をする。
せめて金儲けをしないなら人前に出てもいいのだけど。
空き巣の犯罪者も、空き巣の手口を公開するなら、人前に出てもいい。
悪人が人前に出るなら、金儲けをしないで人々のために悪行の手口を知らせたり、金儲けをしないで他人の悪行を糾弾するならいい。

この動画発信者は、女が逮捕される方向へ世論操作をするから、いったい、何の意味があるのか、考えた事がないのか。
女を叩きたいから性犯罪者を擁護するというトンデモな悪行をやってしまう。
悪い女を叩いたところで、自分の悪行は赦されない。
自分の悪行を赦される方法は、被害者に謝罪して、二度と罪を犯さない生き方をする事だけだ。
多分、自分自身が婚前性交という悪行をやっているから、婚外性交をするスポーツ選手を擁護しているのだろう。
自分の都合で善し悪しを決めている。本来は、絶対的な基準の善悪に対して、自分が合わせるのだけど、そういう発想はないのだろう。

自分に不都合な事は、矮小化する。
自分に好都合な事は、針のように小さなものを棒のように大きく喚く。
針小棒大。
神の信者なら善悪は聖書に書かれている通りだから、自分の都合で選り好みしないし、矮小化しないし、針小棒大もしない。

前歴者でも金儲けで他人の批判をしてもいいという、誤ったメッセージを出して、他の前歴者を出してしまう。
まだ犯罪をしていない人も、犯罪をして前歴が出来ても大した事がないという誤ったメッセージを受け取ってしまって、犯罪をする事へのハードルが低くなってしまう。
他人が犯罪をするように唆しているのだけど、認識できないのだろうか。
蛇がエヴァに実を食べるように唆したのと同じだ。

イエス・キリストは、反省している娼婦は助けて、自分の悪行を棚に上げて娼婦を糾弾するファリサイ派に対して「罪を犯していない者が石を投げなさい」と叱りつける。
反省する人は助ける。
反省していない人間に対しては、その悪を糾弾する。
逆恨み気質の持ち主の悪行を糾弾する。

いくら成果を出しても、その成果の何十倍も害毒をばら撒いていたら有罪になる。
自分の成果は声高に言うくせに、自分がばら撒いている害は知らん振り。

動画投稿者を担ぎ上げている偽ファンの方が、本人の何倍も悪い。
叱らない毒母は、本人よりも悪い。本来は縁切りする。
昔から「悪い世間」は、教唆犯より実行犯を悪いと言っているから、こういう唆す連中が増長する。
世間は自分たちが教唆犯だから、教唆犯が悪いと言わないで、実行犯だけが悪いと言ってトカゲのしっぽ切りをする。

こういう連中は、すぐに自分たちに好都合な方向へ世論操作をしようとする。
世論を動かせると思っているから、軽々しく犯罪をする。
犯罪をした自分自身への刑罰を口先だけで減刑できると思っているから、軽々しく犯罪をする。
神の信者なら、神の掟という絶対不変のルールがあるから、世論操作を企まない。

ルールを捻じ曲げる事が可能だと思うと必ず犯罪をする。
神の信者は、神のルールを捻じ曲げる事は不可能だと思っているから、犯罪をしない。
もしかしたら、法律とかを自分たちの多数決などで捻じ曲げられると思わせるのは、サタン側の罠ではないか。
人々が犯罪をするように仕向けるために、法律を変えられるように社会を作る。

、大衆無謬論とソ連の農地国有化
ダーチャとは、ロシアの菜園が付いた別荘の事。
ソ連の時も国民はダーチャを持っていた。
農地の私有が禁止にされたのは、大地主のように他人を小作農みたいに働かせる場合だけ。
国民が個人で農地を持つのは別に可能だった。
たいていの人は農作業が嫌いだからダーチャを持たない。
ソ連時代に飢えた苦しい経験があるから、飢えるぐらいなら大嫌いな農作業をするため、ロシアは国民の3分の1がダーチャを保有する。

今の日本でも家庭菜園の農地を借りようと思えば、低い金額で借りられるけど、9割の人はやらない。農作業が嫌いだからだ。

大衆無謬論は、大衆に悪いところはないという前提で屁理屈を捏ねるから、ドンドンおかしな方向へ暴走する。
無謬とは、間違いを犯さないという意味。
大衆無謬論だと、ソ連の農地の国有化は、政府の悪だと決め付けるけど、人々が農作業を嫌っているから喜んで国有化に協力したのだろう。
実態は、身も蓋もない言い方をすると、地主や小作農は農作業が嫌いで生産性が低いから、仕方なく国有化して監視をするしかなかった。
そして、犯罪者とか、他人に農作業をやらせる。
農業を効率化して、農作業に従事する人の割合が減れば、その分だけ自分が農作業をしなくて済むため、喜んで国有化に賛成した。

とにかく、農民は農作業が大嫌いだから、命を懸けてまで国有化に抵抗する価値を見出していないのだろう。
聖書のナボトは、アハブ王から土地を売れと言われても、命を懸けて抵抗したのは、神から与えられた嗣業は命を懸けて守る価値があるからだ。殉教になる。
ロシアやソ連は偽装キリスト教団のギリシャ正教だから、命を懸けて土地を守る事に価値を感じない。

聖書で地境を動かしてはいけないというのは、文化を潰してはいけないと言う意味ではないだろうか。
異邦人の善王は、文字を守るために、あらゆる言語で翻訳して命令を出していたからだ。
文化を潰さないためには、住んでいる人を皆殺しにしない事になる。
皆殺しにして言語を潰した権力者は地獄へ落ちるけど、後から産まれた人には何の罪もない。父の罪が子に被る事はないと聖書に書かれている。

大衆無謬論だと、大衆が農作業が嫌いだと言えないから、まるで政府が私腹を肥やすために国有化したみたいな屁理屈を捏ねる。
民主国家ほど、この大衆無謬論の毒に染まっているから、暴走しやすい。

農作業が嫌いな人も居るし、好きな人も居る。

全肯定は侮辱と同じ。
王に対して「王様は絶対に間違わない」なんて言ったら、侮辱しているのかと思う。
役人無謬論というのがあって、公務員は絶対に間違わないという理屈が有るけど、これは公務員を侮辱している。
人間、誰でも間違いはあるのだから、間違いはないなんて言うのは、侮辱しているのと同じである。
大衆無謬論だと、大衆は間違わないと言う事すら弾圧される。大衆は間違いだらけなのに、間違っていると言う事も出来ない。
大衆は間違うけど、大衆は間違っていると言えなくて、大衆が間違っていないとも言えなくて、それでいながら大衆の機嫌を損なわないように、侮辱していないと大衆が感じるように言い回しを考えないといけない。
とんでもなくややこしい状況になっている。
大衆という名の気難しい独裁者の機嫌を取らないといけない状況になっている。
有力者が偏屈だと余計な気力を使う。

自分の間違いを反省できない人間は絶対に幸せになれない。
神に対して犯した罪を認めて反省して、神に謝罪して、神の掟を二度と破らない生き方をする人間が幸せ(天国に入る)になれる。

無謬論は全肯定と同じである。
全肯定するとか、恋人同士なのか。
夫婦でも片目をつぶって、片目で相手の悪いところを判断する。
付き合う前は両目をつぶって相手を求める癖に、いざ付き合うと両眼を見開いて相手の粗探しをするようでは、モラハラと同じである。
付き合う前に両眼を見開いて粗探しをして、付き合ったら片目をつぶって相手の欠点を全て暴かない。
神に対する悪行は見逃してはいけないけど、自分に対する害は赦す。7の70倍でも赦せと神は言っている。

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