
娶り嫁ぎしない存在になる 個人と社会の両方が異常 特定の集団が貧しい理由
、娶り嫁ぎしない存在になる
マタイによる福音書 22:30
復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
マルコによる福音書 12:25
死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
ルカによる福音書 20:35
次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
信者は死んだ後で嫁ぐ事も娶る事もなく、天使のようになる。
嫁ぐとは、父親の決めた相手と結婚して家を出る。
娶るとは、父親の決めた相手と結婚して実家に入れる。
嫁ぐ事も娶る事もなくなるとは、地上の人間の父親に従う必要のない立場になるという意味かもしれない。
地上の父は神の代理人である。
死後は、その代理人からの命令を受けないような存在になる。
本来の主である天の主に従う立場になる。
地上の父親と義父以外に神の代理人は居ない。神の代理人を自称するカトリックは、サタンの手先の悪魔崇拝者である。
聖書を何回か読むと、何となく地上の父が神の代理人のような気がしてくる。
父親が信者なら、父の言う事に従う事で魂を清くしていったのだろう。
父親が信者ではないなら、父の言う事を聞く理由も無くなるのだろう。
天の主を裏切ってから、天の主の代理人である地上の父親から責任を引き継いでいくのが、裏切った自分の罪を清算する手段なのだろう。
魂を清くする手段だった。しかし、新約になると、あまりそういうのは要求されなくなったと思う。
結婚相手を自分で選ぶのは不当利得である。
現世で不当利得を得ようとするから不幸になる。
自分で結婚相手を選ぶ自由なんて言い出すから不幸になる。
神を裏切ったのに、神の命令を無視して、自分の勝手な価値観で結婚の自由とか言い出すのは、さらに神を裏切る行為なのだろう。
ただ、父親が信者ではないなら、相手が信者なら自分で決めればいいと思う。
天の父の神を裏切ったから、地上の父親の決める相手と結婚して責任を果たす。
ただ、父親同士で気の合う者同士で何十人と見繕って、子供同士でその中から好きな相手と結婚するから、自由に選ぶ権利はある。
性格は父親から遺伝するから、父親同士で気が合うなら、子供同士でも気が合う。
父親が神の信者でなければ従わなくていいし、従ってはならないのだろう。
この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。
非信者に挨拶してはいけないし、受け入れてはならないし、結婚相手を連れて来ても受け入れてはならないのだろう。
堕天使・悪魔は自分で結婚相手を選んでいた。
神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
人間が結婚相手を選ぶ時は、神が「自分たちの部族から選べ」と言って、その通りにしたら祝福と恵みが与えられて、従わないで異邦人と結婚したら懲罰的に捕囚とかになった。
アブラムが息子の結婚相手を探して、息子イサクは結婚した。
人間はアダムもエヴァも神を裏切った上に責任転嫁をするから、結婚は責任が分散する形態は禁止される。一夫多妻なら責任は分散しないけど、逆の多夫一妻だと責任が分散するから禁止される。
多夫一妻だと、子供とかに問題が発生すると、必ず他の男に責任を擦り付けて自分は責任を取らないからだ。
無責任・責任転嫁が助長されるような関係は禁止される。
レビ記18章20章の厭うべき性関係も、その性関係だと必ず無責任・責任転嫁が助長されるからだろう。
父親が何十人も見繕った中から選ぶなら、無責任・責任転嫁は助長されない。
、個人と社会の両方が異常
自分か社会か、どちらが悪いのか。
両方とも狂っているのが結論である。
世の中で正常なのは神の信者だけである。
だから、非信者の個人は狂っているし、非信者の集まりの社会も狂っている。
社会なんて土地を独占して不法占領して勝手に衣食住を作っているだけ。
衣食住さえ作れば生命活動はできる。生命活動ができるのは、生命活動ができるというだけで、正常という根拠にはならない。
衣食住を作るなんて、ノウハウが割と確立しているから、相当に能力が低くない限りは作れる。
贅沢を言わなければ、ある程度の能力があれば作れる。
森の中で50メートル四方の木を切って家を建てれば、周りの森が防風林になってくれるから、強い壁なんか要らない。
周りの人間が森を切り開いてしまうから、強い風が当たって、強い壁を作る高度な建築技術が必要になってしまい、自分で作れなくなってしまう。
他人が邪魔するから高度が能力を習得しないといけなくなってしまう。
乾燥地帯なら、水と粘土で日干しレンガで強い壁を作れる。
今の時代は、分業されているから、自分で衣食住をすべてそろえる必要はない。どれか一つの部品でも作れたらいいだけ。
そして、自給自足できたとしても、それで正常な根拠にはならない。
神の信者だけが正常なのである。
異常な人間が正常な人間を見ると異常に見える。
曲がった人が真っすぐな人を見ると曲がって見える。
異常な人間にも種類があるため、異常な人間同士で判断するとおかしくなる。
A異常者とB異常者とC異常者というように、それぞれ違うタイプの異常性を持っているから、同じタイプの異常者同士で集まって、他のタイプの異常者を叩いたりする。
社会活動ができているように見えても、実際は特定の異常タイプで集まっているだけである。
他の異常タイプを相手に取引をする時は、誰かが外交の窓口みたいになって取引をする。
前から何回も書いているけど、二つに分かれてい争っているからといって、片方が正しい根拠にはならない。
たいていの場合は両方とも狂っている。
だから、個人と社会のどちらが狂っているか、という問題で争っているなら、両方とも狂っているのが正確である。
自己採点の観点からも異常性が判る。
社会はサタン社会である。権力者を選ぶのはサタンだから、社会もサタン社会になる。
そのサタン社会で稼げるのは、サタン側にとって好都合な人間である。
こうなると、もはや単なる自己採点になる。
稼げるから正しいという根拠にはならない。稼げるのは、サタン側にとって好都合な人間というだけの話になる。
稼げるから正しいという理屈は、タダの自己採点に過ぎない。
社会は、自己採点の種類が多いだけで、他者採点が全くないし、神の視点の採点もない。
色んなところから自己採点を集めて、まるで客観的な採点と言わんばかりのインチキをやっているのが社会である。
中国の古典にも、色んな人の意見を集めても、結局は全員が1人の有力者の支配下に居るから、1人の有力者の意見が通っているだけになる話がある。
神の視点の採点にしても、聖書を捻じ曲げて解釈している人間も存在するから、気を付ける必要がある。
、特定の集団が貧しい理由
貧困な国や人や集団の原因は、貧しくても神に立ち帰らないからだ。
貧しくても反省しないため、サタン側も「コイツは貧乏にしても神に立ち帰らない」と判断して貧乏へ叩き落す。特定の国や集団とかがいつまでも貧乏なのは、そういう理由である。
貧乏だと反省する人は、貧乏だと神に立ち帰るため、サタン側は「コイツは貧乏だと神に立ち帰るから、金持ちにして傲慢にしてやろう」と考える。
傲慢は神が嫌うから、傲慢になれば地獄へ道連れにできる。
反省しないで、文化や業界の乗っ取りばかりやるから、いつまで経っても豊かになれないし、排除される。
反省しない集団でも、中には反省する個人が出るから、そういう場合は気に入られて個人だけ出世させてもらえる。
基本的に反省や自省する人間は、神に立ち帰る確率が高いため、サタン側も反省する個人や集団を増長させるために金持ちや先進国に仕立て上げる。
ただし、敵に対峙する最前線の国家を無理やり先進国にする場合もあるから、先進国だからといって反省する集団だとは限らない。
人々が注目する業界を乗っ取りしても、既に衰退は始まっている。
人々が注目する業界なんて、とっくにピークは過ぎて時代遅れだ。
そんな事も判らないで乗っ取るから、無駄骨になる。
虚栄に目がくらんで無駄骨ばかりするから、自力でモノを作れない。
まあ、乗っ取られる方も一極集中するような業界を作るから乗っ取られるのである。
多分、サタン側は、時代遅れの業界をさっさと潰して、客を新しい業界へ移したいから、こういう乗っ取り屋をけしかけて食い潰させるのだろう。
乗っ取り屋が金持ちになったら、殺して別の人間にすり替えればいいだけだから、サタン側にとっては不都合はない。
本人かどうかなんて確認のしようがない。しかも、偽物だと判っても、誰も本人を助けない。悪人を助ける人なんか居ない。