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代替信仰の非信者と無駄な禁欲 推定無罪の悪用 迂回買収の知事 同人誌文化について追加
1、代替信仰の非信者と無駄な禁欲
神を信じない人間は、人命軽視になる。
神を信仰すると、命は神のために殉教するために使うモノになる。
だから、神の信者は、自分の命も、他人の命も、軽々しく使い捨てにしない。
非信者がエセ予防薬の薬害でも、ホイホイと接種しに行ったのが8割も居たのは、自分の命を軽々しく使い捨てにするからだ。
非信者が命を大事にと言っているけど、同じ口でエセ予防薬を接種しろと言われるとホイホイ接種しに行く。
命を大事にと言っていても、命を大事にしない。
掛け声だけで、実態が伴わない。
自分が言っている言葉の意味が理解できない。
命令が変わると、以前の命令と真逆な事でも平然と行う。
他人を殺してはならないと掛け声に従っても、次の命令が「敵を殺せ」に変わると、平然と殺すようになる。
人間社会に迎合する非信者は、人間社会からの命令がコロコロ変わると、自分の生き方までコロコロ変える。
非信者は命を大事にしているのではなく、人間社会の命令を優先しているだけ。
人間社会が命を大事にといっているから、命を大事にしているつもりなのである。
なぜ、非信者は、自分に意識があると思っているのだろうか。
それは、非信者同士でも、意識に優劣が存在するからだろう。
自分より意識の劣った人間が存在するから、自分に意識があると思ってしまう。
他人の掛け声で反政府をやっている奴は、他人の掛け声が「政府に従え」に変わると、簡単に反政府を捨てて政府に服従する。
命が軽いから、他人の死が羨ましいとか言い出す。
芸能人が早死にして、良い感じで高い評価が確定すると、うらやましいとか言い出す。
命よりも社会の評価を優先するから、社会からの評価が高い感じで死ぬと、良い死に方とか言い出す。
元々、人間は神のために命を使うモノである。
しかし、神を隠されると、神以外で死ぬ理由を探さないといけなくなる。
それで、社会から高い評価のまま死ぬと、良い死に方と言われてしまう。
本来は、神のために殉教したかどうか、神のルールを守りながら死んだかどうかで、評価されるべきである。
死んだ人間の評価を社会が決めるなんて、死んだ者が死んだ者を弔うのと同じである。
イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
死んでいる者とは、社会に依存している者の事。
社会に依存している者が死んだら、同じように社会に依存している者に葬式や評論をさせなさい、という意味だ。
芸能人の死が羨ましいのは、高い評価で死ぬから羨ましいのである。
非信者が芸能人の死を羨ましいと思うのは、高い評価で死ぬから羨ましいのである。
薬害で死んだと言われると逆上するのは、薬害で死んだ詰まらない死に方をした、と評価されるのを嫌がるからだ。
自分も薬害で死ぬ詰まらない死に方をしたと、前もって言われるのが確定するから、逆上するのである。
そんなに死んだ後の評価が気になるなら、今からでも神に立ち帰って、死後の永遠の命と恵みを神から貰えばいい。
死んだ後まで、他人から高い評価を貰おうとするのは、悪い事だ。
外国には、死後の金を燃やして弔う概念があるけど、これも死者に対して他人からの評価を高める手法である。
他人に祈りを見せびらかしてはならない、と聖書にあるのは、他人に見せびらかして、死者への弔いに囚われてはならないからだ。
他人からの評価に囚われている。
他人に見せびらかすのは、他人からの評価に囚われている。
他人の目に支配される人生になる。
神の目で判断しないで、自分の目で判断するどころか、他人の目に支配される人生になる。
ディストピアに住んでいる人は、自分がディストピアに住んでいる事実に気付かない。
悪魔崇拝社会に住んでいる人は、自分が悪魔崇拝社会に住んでいる事実に気付かない。
他人の目を気にして生き方をコロコロ変えるのは、ディストピアであり、悪魔崇拝社会である。
キチンと聖書を読まないと、無駄な禁欲をするハメになる。
無駄な禁欲をしても天国へ入れない。
必要な禁欲をする必要がある。
酒も、酔いつぶれないで、強い酒の醸造の度数を超えるモノを飲まなければいいだけ。
神を信仰しないと、神以外を信仰するようになる。
代償信仰する。
代替信仰する。
2、推定無罪を悪用
次から次へと敵を作る。
作らなくていい敵を作る。
神の信者なら、神が敵対しろと命じる相手とは敵対する。
非信者の暴走政治集団は、何のために敵を作っているのだろうか。
推定無罪を悪用する奴ら。
推定無罪は、権力を使い立場の人間が守る規則だから、民間人はそんな事をしなくてもいい。
自分たちは相手が疑わしくても罰するけど、お前らは俺たちが疑わしくても罰するな、と言う自己中な奴ら。
こんな自己中だから、まともな組織から追放される。
不遇ではなく、適切な待遇である。
推定無罪を悪用したら相手が怒るという事も判らないのだろう。
相手の立場になって物事を考えない。
相手の気持ちで物事を考えない。
自分が正義だと思い上がっているから、理解する気がない。
正義に逆らう相手が悪いという決め付けで動いて、対立を決定的にする。
こんな思考回路だから、まともな共同体から追放される。
神の信者なら、正義は神にしかないと判っているから、非信者と敵対しようが知った事ではない。
3,迂回買収の知事
1485万円を遠い自治体にポスターを貼る作業で払う。
自治体の仕事も回して買収する。
犯罪者の応援をする奴らは、犯罪者よりも悪質で罪が何十倍も重い。
実行犯のエヴァとアダムは、裁判あり更生のチャンスもある。
教唆犯の蛇は、裁判なしの問答無用で刑罰を下して、更生のチャンスはない。
応援しただけと言う言い逃れは通用しない。
実行犯の殺人知事は反省したら赦される可能性はあるけど、応援した連中は赦されるかどうか判らない。
応援者は謝罪したら赦されるかどうか判らないけど、謝罪しないよりマシである。
4、同人誌文化について追加
前に書いた同人誌文化について補足する。
アメリカ人が日本人から、アメリカで同人誌文化が小さい理由を聞いたら、アメリカ人がアメリカのマッチョイムズが原因と答えた。
しかし、俺の考えは、単に日本は議論をしない同人誌文化が成長するだけだと思う。
アメリカ人が日本人に対して、日本は議論をしなくていい同人誌文化が成長する、なんて言うわけがない。
相手の国を悪しざまに言うようなモノだ。
アメリカ人に配慮されている。
何よりも不気味なのは、アメリカのマッチョイムズが原因という前提で話が進む事だ。
誰一人として日本の自分たちの社会にも何らかの欠点があると言わない。
ブランド商売だと、ライバルを討論で叩き潰さないといけない。
工業製品なら、優劣が見た目と数字で厳格に表れるから、討論で相手を叩き潰す必要はない。
論より証拠。
文化の話のついでに個性の話も書く。
個性がないのに個性を出そうとするから悪魔崇拝をしてしまう。
個性を身に付けるには、まず自分に個性がない事を受け入れるところから始める必要がある。
個性がない自分を受け入れないと、安易に入れ墨を入れて個性になると思い違いをする。
入れ墨が怖いというよりも、そんなモノで個性になると思っている人間性が怖いのである。
多様性の罠。
天の主以外に正しいモノは存在しない。
だから、神以外で正しいとする多様性は間違いである。
多様性があるのは、神の信者同士で性格の違いが多様性が本当にある状況だ。
そういう意味でも、個性も神の信者だけに存在するモノだ。
非信者に個性はない。
だから、神は入れ墨を禁止にしたのだろう。