疑心は真理を見つける 謝罪とテレビ サンタ赤は人血で白は人脂 悪魔崇拝リスト息苦しさ
1、疑心が真理を見つける
太陽と雲のおかしな現象について聞いているのに、教科書を丸暗記した答えを言う奴が存在する。
教科書依存症になっている。
太陽を自分の目で見ない。
色付きの下敷きでも使えば良いのに、それすら使う意識がない。
自分の目で観察する意識が欠落している。
疑問に思っている人は自分の目で見ているから質問しているのに、自分の目で見ないで教科書を丸暗記した答えを言う素っ頓狂な奴。
こういう奴は、まともにコミュニケーションが取れないのだろう。
普通、目で見て疑問を抱いたら、自分も目で見て、相手がどこに疑問が湧いたのか色々と探るはずである。それがまともなコミュニケーションだ。
教科書の中だけで世界が完結する人生なのだろう。
この世はフラットアースだけど、まともなコミュニケーションが取れない奴は、この事実に気付かない。
相手が疑問に思った点を探るという行動ができないと、真理にたどり着けない。
相手が疑問に思う心の出発点がどこなのか、気持ちを汲み取ろうという意識が欠落していると、真理に気付かない。
「探す」というキーワードが大事。
まあ、俺は毒親とのトラブルで息苦しさがあって、その息苦しさを教科書で解消できないから、教科書以外を読み漁ったのだけど。
結果的に聖書に出会って神に立ち帰るキッカケを掴めた。
神がそのように導くために、毒親の元に生まれるようにしてくれたから、神に感謝している。
教科書だけで満足できる人生というのが、どういう家庭環境なのか判らないから何とも言いようがない。
恵まれた家庭環境なのだろう。
まあ、それで満足して教科書の中で疑問も抱かないのだから、恵まれているかどうか、判定は微妙である。
教科書という名の監獄に閉じ込められた人生が幸せなのかどうか。
疑心を奪われた人生。
自由に疑う意識を奪われた人生。
自由を失った囚人と同じである。
疑う事ができないと、信じる事もできない、という事なのだろう。
俺は疑う心があるから、神を信じる事ができた。
科学を疑えない者は、科学を信じているのではなくて、科学に支配されて洗脳されている。
疑わないで信じるのはタダの妄信だ。
俺は、神を信じる前は、聖書や天の主をかなり疑ってかかっていた。
聖書を最初に読んでいる時も疑いながら読んでいた。
最終的には信じた。
日本人は「人を疑ってはいけない」と洗脳されている。
疑わないのは自分の心を捨てたのと同じだ。
聖書の中で「真理を探しなさい」という文言が出てくる。
「探す」というのは「疑う」のと同じである。
探すのは、現状を疑っているからだ。
現状を疑っていなかったら、そもそも探さない。
しかし、神が聖書で「探しなさい」と言っているのは「疑いなさい」と言っているのである。
探す(疑う)者は見つける。
天国の門を叩く者には、天国への道が開かれる。
現代社会を疑う者は、真理を探して、真理の神を見つけて、天国へ入る。
現代社会を疑わない者は、真理を探さない。
現代社会を疑えない者は、真理を見つけられない。
現代社会という偶像だらけの国で、神を尋ね求めれば見つけられる。
「尋ねる」というのもまた「疑う」と同義である。
疑っているから尋ねるのであり、質問するのである。
疑っていなかったら尋ねないし、質問もしない。
つまり、神は、神を信じる前に、疑いながら神を探しなさい、と言っているのである。
疑わないで信じるのはダメとも言っているのだろう。
例えば、自称キリスト教系の家に生まれたから、周りが神を信じているとか言っているから、何となく疑わないで惰性で信じるのは、タダの妄信だからダメなのだろう。
サタン側の手先の悪魔崇拝の偽装キリスト教団の家に生まれて、周りが何の疑いもなく信じているから自分も信じるという信じ方では、周りに流されているだけの妄信だからダメなのだろう。
周りに流されて信仰するのはダメなのだろう。
ナザレの住民も神であるイエス・キリストと一緒に生活していたけど、他の地域よりも立ち帰る人が少なかった。
だから、近くで生まれたからといって有利とは限らないし、不利ですらある。
一度は必ず疑う手順を踏んでから信じる必要がある。
「疑う心すら凌駕する神の真理」という手順が必要なのだろう。
疑う事を捨てて自分の心を捨てた人間なんか、天国には入国させないと神は言っているのだろう。
周りのカルトに洗脳されただけの人間は要らないのだろう。
ただ、ファリサイ派というカルトでも、ファリサイ派や律法学者の言う義を守れる者は天国へ入れるとも言っている。
その偽装キリスト教団が言っている事でも、聖書上では間違っていないなら、そのルールを守れば天国へ入れる。
しかし、その偽装キリスト教団の教義そのものが間違っていたら、どれだけ完璧に守っても天国へ入れない。
教義が正しいのが前提である。
この聖書箇所だと、一応は、律法学者やファリサイ派の義でも守れていたら天国へ入れるとは解釈した。
ただし、彼らは言いはするけど守りはしないから天国へ入れない。
ファリサイ派は、守らなくてもいいルールを勝手に作るけど、その護らなくていいルールを守っても、普通に天国へ入れる。
神のルールに反しない範囲内で新たなルールを勝手に作って守っても、天国へ入れなくなるわけではない。息苦しくなるけど、それだけである。
2、謝罪とテレビ局
性犯罪者のタレントは駄犬は言い過ぎたから謝罪しておく。
申し訳ありませんでした。
悪人は代替わりになったら、前任者が面倒を見たタレントの引き継ぎなんかしない。
武家の家臣団は、代替わりになると家臣を引き継ぐ。
タレントは、権力者に媚びて、やりたい放題すると、本当の楽しさが判らなくなる。
結局、暴走してクラッシュして破滅する。
楽しさというのは制限の中で感じられるものだ。
聖書では、聡明な先代に仕えた老臣の意見を退ける悪王が存在する。
性犯罪をしたタレントが開き直っているのは、どういう意識なのだろう。
タレントは、命令されて犯罪をしただけという意識なんだろう。
闇バイトも命令されただけだから、殺人強盗をしても数年で刑務所を出られるという意識。
自分は無罪という意識まである。
だから、誰と誰の間の示談か証明されていないけど、示談されたから芸能活動を続ける、という意識になる。
自分が直接、犯罪を命令したわけではないし、示談も成立したから、叩かれる理由が判らない、という意識なのだろう。
命令した権力者が被害者と示談が成立したのに、何で命令されただけの自分が叩かれるのか判らない、という意識なのだろう。
本人の意識は、権力者の犯罪者に脅されて犯罪を強制された被害者なのではないか。
どういう意識だろうと、自分で性犯罪をした時点で、スポンサーからしてみればリスクでしかない。
性犯罪をしている時点で100%黒なのだから、どこも使えない。
さっさと引退すべきである。
乗り気ではないタレントよりも、ノリノリで性犯罪に参加するタレントの方が使い勝手がいいだろう。
他にタレントがいくらでも居るのに、なぜ、このタレントが権力者に選ばれたのか考えれば判る。
乗り気ではないタレントだと、暴露や垂れ込まれるから、権力者もそういうタレントは使いたくない。
だから、ノリノリで性犯罪をするこのタレントが選ばれた。
人前に出ていい人間ではない。
銃で脅されて強姦した人間は、善人だったとしたら、自分で人前に出ようと思わない。
ましてや、芸能界で不特定多数を相手に金儲けをしようなんて思わない。
仕事なんて他にいくらでもあるし、生活保護もある。
被害者も加害者も、一億円の示談金の受領書を出さないのはどうしてだろう。
示談したと言っても、誰と誰が示談したのか判らない。
示談金の受領書を出せば、誰と誰が示談したか判る。
権力者が裏に居て、権力者と示談して、タレントとは示談していないとも読める。
もう被害者も加害者も両方とも、真犯人の権力者を隠ぺいして、大衆を騙して自分に好都合な鉄砲玉にしようと屁理屈を捏ねている。
領収書もなしで一億円のやり取りをするとか、脱税し放題だな。
両方の名前と印鑑と拇印のある受領書を出せば一発で信用されるのに、出せない理由があるのか。
示談した相手が権力者なのか、受領証を他人が預かっていて自分で保有できないとか。
この脱税し放題な状況でも国税が何も言ってこない時点で、権力者が関わっているのが丸判りだ。
もしくは、国税にだけは提示したのか。
国税には提示できるけど、国民には提示できない示談金の受領書の証拠とは、いったい、何なのか。
数百円の本の領収書ではなくて、一億円の示談金の領収書で、国税には見せて、国民には見せられないモノとは、どういう条件のモノなのか。
国民には受領書の証拠を提示しないけど、国民は疑う事を許さないとか、自分を特権階級か何かと思っているのか。
証拠を提示しないと、当たり前だけど、このような疑いが出てくる。
疑われるのが嫌で、被害者側なら出版の差し止めぐらいできるだろう。
加害者側では権力者でもない限りほぼ無理だけど、被害者側なら可能である。
被害者の個人的な影響で済んでいる事件なら、被害者の要望で報道の差し止めは可能である。
ただし、事件が大きくて社会的な影響が大きい場合は、被害者の要望で報道の差し止めはできない。
例えば、電車の事故で何十人が死傷したとか、そういうのでは被害者の要望で差し止めはできない。
被害者が一人なら被害者の要望で差し止めは可能である。
他の子も被害に遭ったとか言っても、その他の子が嫌がっている証拠はない。
勝手に他人を使うな。
被害者はテレビ局に所属していたから、証拠を提示しないで大衆を動かす思考回路が染み付いているのだろう。
証拠を出さないで「他人を無料で鉄砲玉に利用するテレビ局の考え方」が習い性になってしまったのか。
こういう特権意識・差別意識が犯罪者に漬け込まれた原因なのだろう。
こういう思考回路が悪人から共感されて近づいてきたのだろう。
自分も他人も悪行をするのは赦さないという意識を普段から言動で出していたら、悪人は近寄らない。
そういう人は、悪人も居心地が悪いから近づかない。
いい年をして、示談金の受領書を証拠として出さないと他人は信じないのが判らない知識なのか。
示談金の受領書も出さなくて人を動かせると思っているのか。
どちらにしても、あまり、良い育ち方をしていない。
悪意なのか無知なのか。
悪意だから、証拠を提示しないで人を動かそうと企んでいるのか。
無知だから、人に動いてもらうには証拠の提示が必要なのが判らないのか。
加害者のタレントも権力者に媚びているから、権力者の存在を隠ぺいするために、自分が示談したかのように話を合わせつつ、示談したから赦されるという雰囲気へ持っていきたいのか。
3、サンタ赤は人血で白は人脂
サンタの服が赤いのは人の血で染めたから。
白い部分は、人の脂肪で飾り付けをしたから。
動物の脂肪は、だいたい、ああいう風にモコモコしている。
家畜の肉を裁く動画を見れば、白い部分が判る。
白い髭も、実際は人の脂肪を食べているから。
聖書では、動物の内臓の脂肪を食べてはいけないと書いてある。
人を殺してはいけないとあるし、人を食べてはいけないともある。
「息子や娘を食べるハメになる」とかネガティブな言い方で人肉食を出すから、人肉食はダメなのだろう。
だから、クリスマスの悪魔崇拝でサンタが人の脂肪を食べている表現をする。
ある地域のサンタは、人の内臓を家に巻き散らかす。
もしかしたら、その家の住人の内臓なのかもしれない。
その内臓で、クリスマスリースの輪っかを作って玄関に飾って、殺害をアピールするのだろう。
クリスマスリースで赤い花や白いポンポンで飾るのは、赤いのは人の血、白いのは人の脂肪。
緑色は、下の裏みたいな青い色を表現しているのだろう。
赤いリボンは腸を表現している。
靴下は、そのまま人の足を表現している。
多分、親を殺して、親の足を切断して、子供の枕元に飾っていたのではないか。
クリスマスツリーの飾りも次のようなモノ。
靴下を飾るのは、人の足を切断して飾っている。
赤い紐を巻き付けるのは、人の腸を木に巻き付けるのである。
白いモコモコを飾るのは、人の脂肪を飾るのである。
小さい人の形を飾るのは、赤ん坊を殺して丸ごと飾る。
球体の飾りは、人の目玉。
星は、多分、サタンの象徴なのだろうけど、星の形は自然界でフルーツとか海のヒトデとかにあるから、星の形については微妙な判定になる。
ハートは心臓の生け贄とかだろうけど、ハートの形は、種を割ったりすると似たような形が出てくるし、そういう形の葉っぱもあるから微妙。
可能な限り避ける。
買うのは避ける。
微妙なマークについては将軍ナアマンみたいに、仕事なら罪に数えられないかも知れない。
こういうマークを考えた奴らが、フルーツや種やヒトデや葉っぱを知らなかったのかも。
勾玉の形も、自然界で鳥がそういう変な形の卵を産んだりする。
自然界に存在する形のマークは、可能な限り気を付けて避ける程度で良いと思うけど、自分なりに聖書を読んで色々と研究したらいいと思う。
4、悪魔崇拝リスト息苦しさ
奴らは、薬草士を魔女に捏造して殺して医療業界を盗んだ前科があるから、悪魔崇拝か判らない紛らわしい事をする。
悪魔崇拝ではないものを悪魔崇拝に捏造する。
悪魔崇拝を悪魔崇拝ではないと隠ぺいする。
犯罪を犯罪ではないと捻じ曲げる。
犯罪ではない言動を犯罪と捏造する。
奴らの捻じ曲げが原因で、息が詰まる、息苦しい、生き辛い社会になる。
犯罪だと知らずに犯罪をして、罪悪感にさいなまれる生き辛さを抱えるハメになる。
犯罪ではない言動を犯罪だと洗脳されて、禁欲しなくていい種類の禁欲までしてしまって息が詰まる。
しかし、天の主を信じれば、真理を知り、自由になる。
本当に守るべきルールと守らなくていいモノを区別できるようになる。
一覧のリストで書いたし、色んな投稿でそれなりに追加している。
これらの一覧を知れば、息苦しさから解放される。