パンデミックの時はまさか今の自分がこうなるとは夢にも思わなかった
2020年から始まった数年間のパンデミック、世界中の人々が不安の中にいました。
僕も例外ではなく、パンデミックが始まった頃は毎日が不安に埋もれて息苦しく、精神的にかなり追い詰められた状態でした。
その頃、僕は約10年に渡るアナログゲーム創作活動の佳境に入っていました。
約10年間、イベントやコンテストで自作ゲームの発表や販売を続け、
2020年には以下の3つのパーティーゲームが一般向けに製品化されるところまで来ていました。
「やった~! いよいよ代表作のゲーム達が全国で一般的に日の目を見るんだ!」
「さあ、日本中の人達を笑顔にするんだ!」
パンデミックが始まる前の2019年の冬、僕の心は夢や希望に溢れてました。
「面白いからきっと、テレビで紹介されまくって、流行りまくって、伝説のパーティーゲームになっちゃうんだろ~なあ(笑)」
そんな呑気なことを考えていました。
しかし、僕のそんな期待は2020年の緊急事態宣言からの自粛生活によって粉々に打ち砕かれました。
その年、テレビで紹介されまくったのも流行りまくったのも僕のゲームではなくコロナウィルスでした。
アナログゲームを狭い部屋で大人数で遊ぶことほど、コロナウィルスが移る確率の高い活動はカラオケ以外にはないでしょう。
自粛生活の頃、ほんの一部のゲーム好きの人以外はアナログゲームを遊ぶことはほとんどありませんでした。
つまり、新作ゲームをリリースするのにあたり、宣伝や販売において最も重要な「初動での販売」が失敗ほぼ確実になりました。
何よりも、ビックサイトで行われる販売イベントで宣伝・販売できなかったことが痛かったです。
【ベストワードクラブ2】と【かぐや姫を笑わせて】の時の販売イベントは中止になり、【ポーズコード!】の時の販売イベントは開催されても会場がガラガラの状態で、ビックサイトには非常に寒くて寂しい風が吹いていました。
「何で夢が叶いそうなこのタイミングでパンデミックなんだよ・・・」
約10年間、以下の自作ゲームなどで様々な賞を獲り、寝ても覚めてもアナログゲームのアイディアばかりを考え、まわりには呆れられ、彼女には別れを告げられ、作品を発表しても大して売れず、どんどん孤独になりながらも、それでも歯ぎしりしながら作り続けました。
マウスピースをつけて寝てるのに、奥歯はもうボロボロです。
「その結果がこれかよ・・・」
悔しさや虚しさが僕の心を支配しました。
全てが無意味に思えて、失望や怒りなど、10年間の創作活動で溜まりに溜まっていたネガティブな感情が一気に押し寄せました。
そのネガティブな感情は、パンデミックの時期なのもあって、全て「不安」という形になってしまいました。
「もう、今はゲーム制作を考えても仕方ない」
それまでは寝ても覚めてもアナログゲームのアイディアばかりを考えていましたが、その理由がなくなり、寝ても覚めても不安や嫌なことばかりを考えてしまいました。想像力が全てマイナスの方向に働いてしまったのです。
そして、僕は不安障害になりました。
たびたび発作が起こって倒れていました。
毎日のように「何だか胃腸が気持ち悪い」という状態です。
不安障害は厄介なもので、一度そうなると、「不安障害の発作が起こったらどうしよう」という不安で発作が起こるという、不安の悪循環が生まれます。
普通の人は「不安になったらどうしよう、という不安で不安になる」なんてバカげていると思うかもしれませんが、それほど不安障害の発作は恐ろしいものなのです。
僕の場合を例えるなら、「本物の幽霊が後ろからだんだん迫ってくる」みたいな感じです。
もはや「不安」を通り越して「恐怖」になります。
不安で息苦しくなって手足が痺れ始めると、恐怖で動悸や目眩が起こり、立つ力がなくなって「このまま死んでしまうかもしれない」と本気で感じながら倒れます。
家から遠くに行くほど
「長時間の移動中に発作が起こったらどうしよう」
「帰れなくなったらどうしよう」
「まわりに迷惑をかけたらどうしよう」
などの不安が生まれるので、あまり遠くに行けなくなったりして、日常生活や仕事に支障が出ていました。
「お金も不安だし、コロナウィルスが怖いから病院に行くのも不安だ。薬も不安だ」
「これからパンデミックがどうなるのか分からないし、全てが不安だらけだ」
2020年の12月頃、僕はそんな暗い気持ちで日々を過ごしていました。
未来のことを考えると、不安で不安で生きづらかったです。
「でも、そんな時こそ外の空気を吸って、空を見ながら歩くべきなんだ」
僕はそう思い、天気の良い日は緑の多いお寺に散歩へ行くようにしました。
するとそこで、僕は僕の運命を変える猫に出会いました。
その猫はゲンキという名前で、地域のアイドル猫みたいな存在でした。
僕も遠くから見たことは何度もありました。
ずいぶん前から居るおばあちゃん猫で、地域の人達に愛されていました。
いつも同じ場所で日向ぼっこをしながら寝ていて、みんなによく撫でられていました。
「かわいいなあ~。俺も触りたいなあ~」
僕がそう思って切り株の上に座ると、切り株のそばに居たゲンキは僕の目を下からじっと見つめました。
「どうした、人間よ。なんだかスゲー不安そうな顔をしてるけど大丈夫かあ?」
みたいな優しいことを言ったのか、
リアルに「お前、優しそうだなあ。オヤツをくれるかなあ~?」と言ったのか、
ゲンキは少ししゃがれた甘い声で「ニャー」と言いながら、切り株にピョンと飛び乗り、おもむろに僕の膝の上に座りました。
猫が膝の上に座るのは生まれて初めてのことでした。
僕の心は驚きと嬉しさでいっぱいになりました。
猫の心地よい柔らかさと温かさと重さで、少しの間ですが、久しぶりに不安や失望を忘れて笑顔になれました。
「ありがとうね~・・・」
そう呟きながらゲンキの背中を撫でていると、涙がボロボロとこぼれました。
そうして、僕はほぼ毎日ゲンキに会いに行くことにしました。
「あの人間、マッサージしたりノミ取りしてくれるよ~」
そんな噂をゲンキが外猫界隈で流してくれたのか、僕は他の外猫達とも仲良くなりました。
「猫は天使だ! 人間の魂を救ってくれるから!」
僕はすっかり猫にメロメロで、完全に猫様の下僕です。
猫がたくさんいる友達の家にもよく遊びに行くようになり、猫ちゃん達にたっぷり癒されました。
どうやら僕は猫のマッサージが上手いらしく、猫様達はいつもゴロゴロ言って下さった。
「猫と暮らせたらいいのになあ~・・・」
僕はそう思いましたが、僕の家は猫を飼えないので、等身大の猫オブジェを買って部屋に飾ろうとしました。
どころが、ネットで長い時間をかけて色んな猫オブジェを探しましたが、どれもしっくり来ないし欲しくなりませんでした。
「じゃあ、自粛生活で家時間が多いから、自分の求める猫オブジェを自分で作るか」
僕はそう思い、百円ショップで材料を探しました。
そして、僕は運命の素材に出会いました。
手芸モールです。
「これを混ぜて猫オブジェを作ったら、スゲー面白そうだ! 柔らかくて自由な感じがきっと猫にピッタリだ!」
ワクワクして、真っ暗だった心に光が差しました。
もはや、僕が見る猫様達には後光が差しています。
そうして、お猫様達をモデルにして作ったのが以下の「モール彫刻」の猫達です。
作品が公募展や美術展で入賞すると、僕は調子に乗、いや、お猫様達に導かれて、次々とモール彫刻の猫を作り、猫作家としての活動を始めました。
作家名は「マークン・ネコガスキー」です。
そして、すっかり猫ちゃん制作の味をしめた僕は、まだ頭の中でしか作っていないアイディアでも自分の直感を信じて、材料費にお金を注ぎ込んでいきました。
そして、何度か失敗を繰り返しながら、モール彫刻と同じ要領で以下の「ワイヤー彫刻」や「ラッピングタイ彫刻」を編み出しました。
そうして、猫様達のおかげで、想像力が再びプラスの方向に働くと、僕は狂ったように猫オブジェを次々と作っていきました。
ネガティブからの反動で創作力が凄まじく、誰も何も僕の猫ちゃん制作を止められません。
貯金はポップコーンのようにポンポン飛んでいくし、押し入れは満員電車並みに猫オブジェでギュウギュウです。
でも、僕にとって、新しい素材表現への挑戦ほど心踊ることはないみたいで、最高に心が充実していました。
やがて、コロナウィルスが大人しくなってパンデミックも落ち着き始めた頃、ゲンキをはじめ、保護されたり亡くなったりしてもう会えない猫が増えてきました。
いつも悲しくて泣きそうになりますが、僕はそれで涙を流すことはしません。
寝る前に猫達を思い出して、
「いつも膝に乗ってくれて、ありがとうね」
「いつも声をかけてくれて、ありがとうね」
「いつも迎えに来てくれて、ありがとうね」
「背中やアゴを撫でたら、いつも目を細めてゴロゴロ言ってくれて、ありがとうね」
「抱っこしたら尻尾を揺らして手を舐めてくれて、ずっと楽しく一緒に居てくれてありがとうね」
など、猫達への感謝の想いで、いつも涙がボロボロと流れます。
それでも、「もう物理的には会えない」という寂しさがあり、僕はその寂しさを埋めるように、また新しい技法を求めて、以下の「リサイクル彫刻」を制作するようになりました。
何かに挑戦すると、そこからまた別の挑戦が生まれます。
リサイクル彫刻に挑戦したことにより、新聞紙彫刻を作るようになり、そこから以下の「シール彫刻」「造花彫刻」などが生まれました。
そうして猫作品を公募展や美術展などの様々なところで発表していると、
「ワークショップをやりませんか」
「展示会をやりませんか」
「うちのお店に置きませんか」
「個展を開きませんか」
などのお誘いを受けることになり、僕は尻尾をフリフリして以下のイベントを開催させて頂きました。
新しいことに挑戦し続けていると、誠にありがたいことに、自然と誰かに機会を与えてもらえるものなのでしょう。
すると、見た人達が
「なんじゃ、この異色の猫アートは!?」
となるのでしょうか、色んなメディアから取材が来るようになりました。
千葉県発行部数最多フリーペーパーの「ちいき新聞」での取材から始まり、個展の様子が読売新聞と毎日新聞で記事になり、ワークショップの様子がいちかわ新聞や行徳新聞で記事になりました。
公民館での展示がテレビ東京の「モヤモヤさま~ず2」で紹介されると、市川市主宰の展示会に招待されて、田中甲市長と対談イベントを開いてもらうことになり、その様子が市川浦安よみうり新聞などで記事になりました。
上記のように、僕の心は、パンデミックの時の不安地獄からは想像もつかない、誠にありがたい状態になりました。
ゲーム達もパンデミックが落ち着いてからは様々なテレビ番組で遊ばれるようになりました。
僕がどれだけ作品を作っても、個性や新規性よりも技術やキャリアや知名度などを評価する人しかいなかったら、誰にも評価も機会も注目も与えてもらえなかったと思います。
僕の猫ちゃん達を助けてくれる人達がいるから、僕も猫ちゃん達もハッピーでいられます。
本当に、何もかもが皆様と猫様のおかげです。
僕は地域猫みたいなものです。
地域猫が色んな人達に世話をしてもらって自由にのびのびと生きていられるように、僕も色んな人達が世話をしてくれるから何か新しいものを作れています。
なので、僕は地域猫にものすごい仲間意識を感じていて、いつも地域猫ちゃんを抱きながら「ありがとうね~。ありがたいね~」と呟いています。
ひょっとしたら、地域では「変な猫オジサン認定」をされているのかもしれません。
そうして、約10年に渡る創作活動とパンデミックによって、僕は以下の結論に達しました。
「全てはまわりから与えられたものだ」
パンデミックが起こる前、何かが上手くいった時は「6割はまわりのおかげで、4割は自分の努力や才能のおかげ」みたいに思っていました。
でも、それは大きな勘違いでした。
僕の場合、才能も、努力も、実はまわりから与えられたものだったのです。
才能が開花するための機会も資金も、努力するための時間もモチベーションも、よく考えればまわりや世の中から与えられたものです。
親や一族や地域のお陰で才能や努力の種が小さい頃の僕の心にまかれ、色んな人達が評価や機会という水をまいてくれたから種から芽が出て、色んなメディアが太陽のように光を当ててくれたから花が咲いたのです。
つまり、僕の作品は直接的には僕が作ったものですが、間接的には僕のまわりの人達が作ったものです。「みんなで作った」という感覚が強いです。
僕は制作を楽しみながら、世の中から与えられたもの(自由)を具体的な形にして世の中に返しているだけです。
僕の作品が個性的なのは、市川市や日本が個性的だからです。
それこそが、パンデミックと猫様から僕が学んだことであり、僕の創作活動の基準になっていくことでしょう。
そして今、僕は腰痛や肩こりと戦いながら、また新しい花を咲かそうと挑戦しています。
アップサイクルアートとして「透明ビニール彫刻」という技法を編み出し、ビニール彫刻の巨大招き猫を制作中です。
上の座っているポーズで「ビニール彫刻」の巨大招き猫を造ります。
そして、しばらくしたらそれを「ホログラム彫刻」「造花彫刻」に変化させていきます。本物の猫のように成長していくのです。
完成を想像するだけでワクワクします。
そんな楽しい気分で作れるのは、本当に協力してくれる皆様と地域のおかげ様です。
完成したら公共施設に寄贈したいと思っています。
以下がその制作過程です。
パンデミックが起こった頃、まさか自分が「マークン・ネコガスキー」という猫作家になっているだなんて夢にも思いませんでした。
ですが、それ以上に「自分がこれほど皆様や世の中に感謝するようになったこと」の方が意外でした。
それほどまでに僕は傲慢だったのです。
これから先も「想像していなかった未来」がやって来るでしょう。
でも、遠い未来を不安に思うことはもうありません。
僕は未来で後悔をしないように、自分らしい作品をニャンニャン作っていくだけです。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました❗(=^ェ^=)