『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[024]陸に上がる
第2章 フヨの入り江のソグド商人
第1節 フヨの入り江
[024] ■2話 陸に上がる
「あの左の端に見える木と煉瓦の建物が、吾れが荷を預ける商人の蔵だ。丘の中ごろにあって、西にも南にも下りられる。気難しい男だが、目端が利く。人によって好き嫌いはあるだろうが、吾れは頼りにしている。
なんでも、西の方から石と砂の原や山と川をいくつも越えて、何か月も旅してここに落ち着いたという。昔むかしのことだろうが……」
――石と砂の原とはなんだろう。長い砂浜のようなものか?
ナオトは、ふとそう思ったが深くは考えず、「うんっ」というように頷いた。
現在のロシアの日本海側、沿海地方にあるアムール湾は、ピョートル大帝湾という大きな湾の中にあって、最も西に位置する支湾である。
アムール湾は半島と島によって外海と仕切られており、湾の長さは南北に約六十五キロメートル。東西の幅は狭く、十キロメートルをわずかに超えるほどである。湾の北部の海岸から南へと広大な浅瀬が伸び、南西の湾口に向かって徐々に深くなっている。
陸地に深く入り込んでいるこの湾の海岸線は複雑な形に入り組んでいる。波と風を防ぐような島と岬をともなう入り江は、どれも、天然の良い泊になっていた。
多くの舟長が、数ある入り江のうちから湾口に位置する入り江を荷上げや風待ちの湊として選び、フヨの入り江と呼びならわしていた。入り江の内に大小二つの島を抱え、西にあるフヨの都までは馬で三日と近い。舟は岬と二つの島の間を航行し、また、島を風除けにしてその陰に停泊する。
ただ、ヒダカの十三湊とは違い、フヨの入り江と沖合いの海は冬には氷で覆われる。
北にシベリアが控えるアムール湾一帯の海氷の形成は早く、氷は十一月下旬には現れ、二月には湾は氷で閉ざされて、歩いて移動できるほどの厚さになる。
翌春、水温が急激に高まって氷が融け、各地からの舟が再び集まり出すのは、早い年でも四月の終わりになってからだった。
この物語ではフヨの入り江を、入舟料と引き換えにフヨ王の血族が与える保護のもとで、近隣から多くの舟が集まってくるフヨ国沿海の大集落として描く。実際にそういうことがあったとしてもおかしくないとはいえ、フヨの入り江とその周辺における人々の営みについての以下の話はすべて架空の物語である。
入り江の岸に舟を寄せる場所を探していると、岸で舟待ちをしていたヒダカ人らしい男が近寄ってきた。長い髪を丸めて頭の上で結い、袖が短い白い上衣を頭から被って着ている。紐で留めているらしい下穿きはヒダカで見るものよりも長く、踝近くまである。砂地のためか、裸足だ。
近くの人夫になにやら小声で告げ、北の岸に舫っている数艘の小舟を指差した。頭を下げて後退ったその人夫は足早に人の溜まりに向かい、消えた。その岸の男がこちらに来いと手を振って合図している。
「おっ、ハヤテだ」
カケルは片側の六人の舟子に声を掛けてあと一漕ぎし、岸の杭近くに付けた。飛び降りると、ハヤテと呼んだ男に近寄っていって、「しばらく」というように互いの腕を掴んだ。タケ兄が二本の杭に舟を舫い、舟子はみなやれやれというように舟を下りはじめた。後ろを振り向いたカケルが、
「弟のナオトだ」
と言うと、ハヤテは顎を引いて目で挨拶し、
「この後、舟と荷は吾れが見る」
とカケルに告げて去った。