『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[191]ニンシャを訪れた李廣将軍
第8章 風雲、急を告げる
第3節 オンギン川の戦い
[191] ■2話 ニンシャを訪れた李廣将軍
それならばとメナヒムは、問いを変えた。李廣将軍のことのみを尋ねようと、考えを改めたのだ。何しろ、あの李廣将軍の薫陶を受けて育ったと伝え聞く孫の李陵が、いま、目の前に立っている。
「いささか唐突ですが、将軍。私は幼い頃に、ニンシャの地で李廣将軍のお姿に接しました」
少し戸惑ったようだが、すぐに興を引かれた様子でメナヒムに向き直った。
「それは、それは……。どういう事情でかな?」
抑揚のない声の調子は変わらない。
「私はニンシャで生まれ、タンヌオラ山脈の北の草原で育ちました」
「タンヌオラの北とは、トゥバのことか?」
「そうです。オルドスの地、黄河の辺りのニンシャから移って行ったのです」
メナヒムは四十六歳。鬢にはもう白いものが混じっている。
――確か、李陵将軍の歳はわしと近い……。
「そうか、そうか……」
李陵の厳しい目つきは遠くを見るようにたちまち変わり、幼時に祖父と過ごした時を思い出しているかのようだった。
「将軍は、涼州でお育ちですか?」
「そうだ、そこで馬と一緒に祖父に育てられた。ここにこうしておるのも、まあ、その縁ともいえる。祖父は匈奴の気風を好いていたからな……」
「そうですか。私も同じです。ここにこうしているのは李廣将軍とのご縁からともいえます。私の同族は、みな涼州に移りました。李廣将軍のお勧めで」
「なんと……。ではニンシャとは、あの胡人のニンシャ人か?」
声音が変わったのに驚いたこともあって、メナヒムは少し間を置き、「はっ」と畏まって会釈した。
「そうか、そうだったか……。一度だけ祖父が、『あの逃げて去ったニンシャ人の一団はいまはどこにおるものかのう』と、わしに問うでもなく訊いたことがある。もちろん知る由もない。わしは何も知らずに東と答えた。そのような気がしてな」
「我らは北に向かったのです。しかし、なぜ、東と思われました?」
「確か、わしの初陣のときだった。それまでは、羌族の友に囲まれて野で狩りをして遊んでいた。そのうちの一人が、何かの折りに、胡人は東を好むと言った。それが心のどこかに残っていた。祖父は、『そうか、東か……』と言ったかと思う。やはり、気に掛かっていたのだろう」
「そうでしたか。いや、積年の思いを果たすことができました。将軍、ありがとうございました」
「なんの、こちらこそ。久しぶりに祖父のことを思い出した。よかった……」
いまならば訊けると思った。メナヒムは、ナオトの鉄窯を守るという思いで口にした。
「将軍、漢が東のフヨに踏み入ってヒンガン山脈に沿い、あるいは、黒龍江を辿って匈奴の地に現れるということはありましょうか?」
この問いに対して、意外にも、李陵はすぐに答えた。
「いや、あるまい。あのフヨの地は、まだ東胡と呼ばれていた頃にお若かったいまの皇帝が衛青将軍に命じて平らげ、蒼海、楽浪など四つの郡を置いたことがある。河西に四郡を置いたのと同じ頃だ。帝のお心にはいつも匈奴がある。左右両翼から匈奴を攻めようという企てだったのだろう。
しかし、東の四郡は二年と保たずに廃した。護り切れなかったのだ。
衛青、霍去病の両将軍が身罷って久しい。いま、東のフヨで戦さを仕掛けようにもそのための将兵が揃わない。
フヨの西部の山地に分け入るのはいいが、兵站が延びて長くは保てないだろう。東から回るとなれば、あの、方角を過たせる曲りくねった川と鬱蒼とした森を往くことになる。舟も要る。漢兵は長くは耐えられまい。沙漠の礫の上を馬で急ぎ渉るようなわけにはいかない」
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