恥部。
お久しぶりです。
まずは何から書こうかな。
久しぶりのnote過ぎて自分がどんな文調で毒にも薬にもならない話を綴っていたのか、あまり思い出せないですね。
どうやら最終投稿は10月10のようですね。
(一応貼っておきます。)
この約5カ月の間、一体何をしていたかと言うと、長い時間とそれなりの労力をかけてゴミを捻り出していたのです。
そのゴミの正式名称は「卒業論文」なんて言ったりするそうですが、私から言わせてみればゴミ以外の何物でもありませんでした。
正直言って、私自身も驚いているんです。「では!学部4年間の集大成がこちら!」(ゴミ登場!)みたいなことになるなんて。
いや、実は心のどこかではわかってたのかもしれませんね。ここまでの人生を振り返ってみると私の人生はずっとこんな感じでしたから。
例えば、目標(10)というところを目指していたとして、私はそれなりに頑張ることができます。しかし、いつも終わってみて自分の場所をみるとそこは「4」くらいなんです。そりゃぁ、時には「6」の時もありますし、「7」の時もありますよ。でも大概は目標に到達できないことの方が多いんです。正直、これに気が付いたのも最近なんです。というのも、今までは「目標に到達できない自分」を見ないようにして心を守ってきたんですね。きっと。
一方で私のことを「努力ができる人間だ」と評価してくれる人がいます。それは私がずる賢い人間だからそう思わされているだけだと思います。私は「10」の目標がありつつも、そこまで到達できずに「6」の結果しか出せていないはずなのに、もともと「6」を目指して「6」出来たヤツの顔をするのが得意なんだと思います。たぶん見栄を張りたい気持ちとかもあるんだと思います。見栄っ張りなんで。(言っていてめちゃくちゃ恥ずかしいですねコレ。)
そして今回の卒論、改め「ゴミ」が完成したときにこう思ったんです。「あぁ・・・死にたい。思い描いていた卒論の20%くらいしか書けなかった。消えてしまいたい。」
恐らく、年明けから最近まで、ここ数年で最も自己肯定感の下がった期間だったんじゃないですかね。しばらくは何もする気になれませんでしたから。
ですが、結果的に自分を見つめ直す機会にはなりました。前述の通り、「目標を達成できたヤツの顔をするのが上手い」という話は今になって自分を振り返って思ったことであって、今まではそれすら認識しておらず、「目標達成できていないのに、なぜかいつも満足気で顔と毛の濃いヤツ」だったんですから。
今回学部卒業ゴミ製作に伴って「出来ない自分」「やりきれない自分」を認めることが出来たんですね。そして、自分を否定するのではなく、自分と言う存在を受け入れて生きていこうと思えたんですね。例えるなら、「リセットできないRPGゲームのキャラガチャで能力値微妙なキャラ引いてしまったけど、そのキャラの能力値や性質を嘆いても何も変わらないので、受け入れてそいつを使って、どうにか目標までプレイしてやろう」ってな感じで腹を括れたのです。
以上、こんな感じで長い時間をかけて創ったゴミの完成と共に自己の再認識がなされ「この春一皮剥けちゃいました!」って話でした。こういう話は今まで他人に話すどころか、自分でさえよく解っていなかった部分なので、自分の恥ずかしいところが詰まったモノを晒すのはかなり恥ずかしいです。
余談
いつも何か自分の成長を感じる瞬間には痛みが伴うと思うんです。自分の許容範囲の外にしか成長というものはなくて、その成長を取りに行くためには自らを安全圏から出して、既存の自分を壊して苦しい思いをしないと成長できないのだな、と。
ここ1か月で新たな週間として筋トレとコールドシャワーを取り入れてるんですが、日々安全圏から一歩踏み出す勇気を鍛える訓練って感じがして非常に有益な習慣だと感じています。
次回は心と身体について書いてみたいと思います。
読んでくれてありがとう。
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