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映画『小学校〜それは小さな社会〜』を観て感じたさまざまなこと
私の住む地域でも上映が始まりました。
観てきた人(私)の立ち位置としては、
教員ではない
ベテランと言っていい小学校事務職員なので、ある程度、中の事情がわかる
2人の子が公立小学校に通っていた、親(元小学生保護者)
上のようなスタンスで、以下、観て感じたさまざまなことを書きます。
1 先生方の「二重の気負い」の可能性
2021年という年の小学校
前提として、撮影の行われた2021年は小学校にとってどんな年だったか?
大変だった、という大づかみは思い出せても、詳細のところの記憶がおぼろげになっている小学校関係者もいるかもしれない。
↑これはNHKが当時まとめた記事だが、どんな状況だったか振り返るのに便利だ。
臨時休校、オンライン授業、分散登校、ディスタンス、黙食、黙読、黙動、マスク、活動前後の消毒・除菌と拭き取り、パーティション、学校版PCR検査、行事中止(映画でも、当初計画時期の修学旅行は中止になっていた)etc…
社会が、イライラピリピリ、張り詰めていた。
小学生という、本来的に「密」大好きな子供たちを預かる、あるいは活動全般に「密」が前提かのような小学校の、とりわけ教員は、前例のない対応と配慮そして負担感を強いられていた……。
正直、普通のメンタルでいられたわけがないだろう。
6年生担任の、坊主刈り先生の張り詰めたオーラは、(いや、社会が「平常」であっても彼の持つ特質として醸し出されているかもしれないが)「2021年」にも理由があったのではないか。
「運動発表会、修学旅行、卒業式……どうしていくべきだ?なにが最適解なんだ」
と常にぐるぐる考え、悩みつづけていたのではないか。
映画の撮影を受けるという気負い
まずもって、映画の撮影を受けるという決断、すごいことだと思う。
監督側が(おそらくまずは世田谷区教育委員会に)打診し、区教委が学校に打診し、受けるかどうかの議論があり……保護者にも説明をしただろうか?とか含めて、その内幕は、ぜひ知りたいものだと思ったりもする。
校長先生から、(オンライン?リアル?)朝会などで子供たちに
「今度、私たちは、映画に出ることになりました。
私たちの学校生活そのものが、映画の主役です。
映画になったら、私たちの様子を、海外の人だって観たりするかもしれません。
『塚戸小の僕たち私たちは、最高に素敵な小学生なんだよ!』と、世界中の小学生に見せてあげましょう」
なんてハッパをかけたりも、あったかもしれないなぁ……と妄想。
それはそれとして、先生方とくにクローズアップされる1、6年生の学年団は、そのことでさらに気負ったのではないだろうか。
「ゆめゆめ、おかしな言動をカメラに収められるわけにはいかない……」と。
2 膨大なはずの「編集で落とされた映像」を考える
そもそも、撮られていない「シーン」の中に多くの真実があるのは間違いない
撮影スタッフさんが、その日の約束の時間が来たので、職員室から出る。
「それでは失礼します」
「お疲れ様でした!」
さーて、それじゃあ、やりますか。
という感じで、親への電話だったり、いじめ対応の話し合いだったりを始める。
あるいは、職員室の各自のテーブルで、
「さすがに撮られていたら、ちょっとね笑」
とお菓子を食べ始め、同時に児童の話題を周囲の教員たちとガンガン遠慮なくやる。
それは、学校関係者ならば「あり得ますね!」と同意くださるはず。
スクリーンに映っていた「表面情報」だけが、学校のリアルではありえない。
この点は、映画を観る(考える)上で、留意してもいいだろう。
絞って救われたのは、ストーリーだけではなく
もしかしたら、2〜5年生の教室にもカメラが入っていたかもしれないし、もっとありそうなのは6年生の他の3クラスにも「坊主刈りの先生」教室と同じ程度、カメラが回されていたかもしれない。(ジャン先生学級とか)
でも、それを使わず、「6年生は、ほぼ坊主刈り先生学級のみで見せる」にしたのは英断だと思う。なにより、坊主刈り先生への配慮になったのではないか。
小学校での子供たちの一年間は、「誰が担任になるか」でまったく違ってくるのは間違いない。
例えばジャン先生が子供たちとフレンドリーにやりとりしている場面が入れば、そこだけピンポイントに切り取られ、坊主刈り先生がネガティブに見られかねない。
それは、この映画(監督)の望むことではなかったというところだろう。
という前提に基づき、坊主刈り先生を中心に「スクリーンに映っていた表面情報」から、以下考える。
3 坊主刈り先生の「頑張り」を考える
5:55AMに職員室で朝食…、さすがにそれ早く来すぎでは
別にくさしたいとか、悪く言いたいのではないのだ。
もしかすると、このシーンの撮影日は夕方お子さんの保育園迎えがあり、どうしても早々に退勤しないといけない、たまたまそんな日だったかもしれない。
事情は人それぞれあるだろう。
でも、さすがにやっぱり早すぎる。
2022年、Y県B市の小学校の投稿が、旧Twitterで炎上した。
「朝6時過ぎから連日、先生方が運動会準備をしている」と誇るかのような投稿。
これは、(おそらく)投稿した管理職がこんなことを美化しているから燃えたのだけど、坊主刈り先生はそうやって求められて早く来ているわけではなさそうだ。
個人として必要に迫られて、が行動のモチベーションなのはわかる。
……でも、あと1時間半は出勤遅くてもよくないですか?(それでも、正規の始業時間の45分前とかですが……💦)
みんな(注)大好き「心を一つに」を、どうなのって考える時期に来たのでは
運動発表会練習で、「心が一つになってない!」と檄を飛ばすシーンがある。
(たぶん、坊主刈り先生が)
いや便利な言葉だと思う。
教員はみんな大好きなんじゃなかな?って偏見を持ちたくなるほどに。
でも、そもそものところ、「心が一つになる」ってどーゆうことだ?
心が一つになれば、表現(ここでは個別の縄跳び)が一糸乱れないし、全員ノーミスになる感じ?
6年男子(キハラくん)がうまく飛べない二重跳びを練習し、練習の中でコツがつかめたふうで、本番も跳び切れる画自体は、日本人なら大好物なやつだろう。
1年生の泣き虫さんのシンバルエピソードも同じだ。
でも、もしキハラくんが本番で二重飛び2回で失敗しても、そこから不本意な顔をして何度も挑み失敗しても、それはそれで美しい、尊い。
キハラくんではなく、教員としては。
成功したから、充実した眼差しをたたえるのではなく。
練習時間ではなく本番。晴れの舞台。「成功」を求めてしまう場面で。
ドツボにハマって失敗したのを目撃したとしても、そこをうまいこと励まし、その児童が次に何か頑張れることにつなげる……そんな声かけができる先生であってほしい。
4 一年間、あるクラスを同じ担任が持ち、評価する(所見を書く)→そのこと自体再考したっていいのでは
1年間、あるクラスを同じ担任が持ち、評価する(所見を書く)。
ずっとずっとこれが当たり前に行われてきたけど、だからって今後も絶対、変えちゃいけないってことはない。
根幹は何か?「これまで変えてこなかったこと」ではなく、「子供の育ち」だけしかないはずだ。
例えば6年1組を、1学期は坊主刈り先生、2学期はジャン先生……って担任がスライドしていくのは、ダメだろうか?
教員と児童、それぞれが持つ個性や性分によって、どうしても相性がある。
良い悪いではなく、相性の問題。
これを1年固定にしない試み、どうだろう。
1学期は輝けなかったけど、2学期は輝けた、って児童(逆も然り)が多く出そうならば、それ、大ありなのでは?
今までのことが、全部良かったわけじゃないわけだし。
(途中で講演に訪れた大学教授さんが、
「この社会のネガティブ面、ネットで酷い書き込みが集まってあげく誰かが自殺する、そんな社会を実は学校が作り出しているかもしれないという責任を……」
という趣旨の発言をしてもいた。)
以上は、「この映画が語ろうとライトを当てていたこと」
ではない。
「映画を受けた私が、映画を観ていて、自由に思ったこと」
だ。
「教員でないのなら、こういう議論を始める資格はない」
「専門家、実務者ではないのに、こういう議論を始めるとはどういうこと?」
今まで、この国の教育論議に、そういう空気がないわけではなかっただろう。
でも、「この映画を語ること」は、イコール「この国の小学校教育を考え、考えたことを誰かに熱語りすること」であるはず。
タブーなき議論が、この映画によって解禁された。
5 まとめ 学校にカメラが入ったから、「誰もが考える」ことにつながったエポックメイキング性
事務職員は、事務室と職員室あたりが主な活動範囲で、教室に入るとしたら放課後になる。
エアコンの不調を見に行ったり、カーテンの枚数を数えたりだとかだ。
小学校の建物の中で働く身でありながら、教室内の「先生と子供たちの時間中」には、あまり様子を感じたりすることがない(たまに研究授業をのぞきに行ったりはするけれど)。
仕事で学校の中にいる私でさえ、そうなのだ。
小学生の保護者であれば、授業公開日や運動会、展覧会などに教室やグラウンドの様子を覗けはする。だが通常モード、素のクラス内の様子をこんなふうに見られる経験って、初めてのことではないか。
今回、山崎エマ監督がこの映画を作ったことで、さまざまな議論が巻き起こることになった。
それは、小学校という現場にとって、すごくいいことだと思う。
「自分の頃もそうだったし、まあ学校ってそういうものでしょう」にとどまらない、思考への刺激、活性化。
この映画は、私たちにそれを与えてくれる。
映画製作陣のみならず、当時の世田谷区立塚戸小学校の教職員の皆様、児童たち、保護者さん、関係の方々へ、大きなリスペクトを捧げたい。
P.Sその1
映画の上映後、観ていた人たちの年代が多様で驚いた。
現役小学生も(親と一緒に)何人も。
後ろの席にいた青年、「キハラくん」に少し似てて、まさかね?って思いました😀
P.Sその2
帰宅後、家にいた子供たちにこんな映画を観てきたことと、コロナ禍の学校生活話や、5、6年生の時の担任の話などに発展。
……内容は……書けません……!😅