今日も我が家は「私の生まれた時」私のこと 2
私はテレビがお友達でした。
記憶が曖昧で前後してしまうと思います。
ご了承下さいますようよろしくお願い申し上げます。
多分、アメリカからのドラマシリーズで「名犬ラッシー」や「わんぱくフリッパー」動物を扱う物語りは大好きで必ず見ていました。
「奥様は魔女」は朝の番組で「いいなぁ〜魔法が使えて」と思っておりました。
小学生になると「まるでランドセルが歩いている様だね」と言われた。
早生まれのせいもあるのだが、私の不具合が色々と露呈していくのだった。
まず、他の子と同じ事が出来ない。
忘れ物が多い。
勉強が出来ない。
何故?友達を怒らせているのか分からない。
そんな私に母は「なんで出来ないの?」とため息をついた。
先生に忘れ物を取りに行かされて、「親にハンコを押してもらって来なさい」と言われて帰っても親が居ないので、たまたま同じ方向に同じく忘れ物を取りに帰る友人のお母さんに頼んでハンコを押して貰った。
お母さんが仕事をしているお家は少なかった。
だからお母さんが家にいる友人が羨ましかった。
先生やクラスメイトから意地悪な事をされたとしても、引きこもることもなく学校生活は楽しかったのかもしれない。
授業参観はほとんど父が来てくれた。
スーツ姿の父はカッコイイと評判だったので私は誇らしいのでした。
学校行事にほとんどが母親参加が多い中父が参加してくれていて私は嬉しく思っていたのでした。
食の細い私でしたが給食は時間がかかっても食べられていた。
そして何時も食べるのが早い男の子の食べ方を見て真似をしておりました。
中華風野菜炒めと砂糖を塗した揚げパンが好きでした。
私の代では脱脂粉乳ではなく、瓶の牛乳でした。
私が好きな時間は図画工作と体育の授業だった。
その頃の両親はあいも変わらず、夫婦喧嘩の日々を送っておりました。
どんなに努力しても良い子にはなれず、半ば私は私を諦めるしかなかった。
母はよく血の話しをした。
「あなたには私の血が半分入っているのだから出来るはずなのに、なんで出来ないの?」
答え様がなかった。
父の血は悪者だった。
その頃、ADHDや発達障害の話しは無かったのです。
毎日のように喧嘩ばかりしているのに「別れる」と言うものの別れることはなかった。
それでも私は母のことが好きでした。
いつの頃だろうか、多分日曜日の朝だと思う。
アメリカのドラマで家族全員がそれぞれに楽器の演奏が出来て皆んな仲良くイベントに出演してファミリーバンドとして活躍するストーリーのテレビ番組があった。
私は心底そのドラマに憧れていた。
そして私は、父の血はそんなに悪いのだろうかと悩んでおりました。
母は父方の親戚をよく言う事がなかった。
でも、だんだん高学年になってくると母の、この類いの話しには乗らなくなって「また、始まった。」ぐらいに思えるようになりました。
今、思うと母はこの頃とても忙しく問題も多く抱えて大変だったと思うのです。
母は私を常に心配して、「これもダメあれもダメ、やっちやいけない、いっちゃいけない」と言われていた。
聞けば、全てにNOサインでした。
なので「バレた時はその時だ」と思っていたのでした。
日中、母が仕事をしていて幸いでした。
私もそれなりに知恵が回る様になっておりました。
母が仕事をして家に居なかったからこそ、私は好きにする事が出来た。
もし、母が家にいて主婦だとしたら多分私はおかしくなっていたに違いないと思うのです。
1970年 大阪万博が開かれた。
ニュースからも三波春夫さんの「こんにちは、こんにちは🎵」と歌う声が聞こえていた。
私は行く事はなかったが、「太陽の塔」や「月の石」は見てみたいと思った。
クラスでも、その年の夏休みに数人が出かけた様だった。
それなりに楽しく小学生生活を送る事が出来た様でした。
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