今日も我が家は「私が生まれた時」私のこと
私が物心ついたのは2・3歳ぐらいでしょうか、その前の記憶は微かで確信は持てないのです。
カタカタ鳴る手押し車の記憶もあるのですがそれが幾つだったのか?
確か1964年に東京オリンピックがありました。
テレビで聖火台への点火は見たような気がするしアベベ選手の活躍をニュースで何度も見た記憶があるのです。
そう、テレビで言えば朝は必ず「おかぁさんと一緒」キャラクターはブーフーウーの豚さんでした。
夕方は「ひょっこりひようたん島」を見るのが定番になっていた。
ドン・ガバチョやトラヒゲのキャラクターの真似を父がしてくれるのを喜んでいた。
私は紛れもなくテレビっ子でした。
レコードプレーヤー付きのテレビは時に見にくく砂嵐のチャンネルもあった。
特に12チャンネルはいつも砂嵐で微かに映るウォルト・ディズニーの番組が見たくて悔しがった、よく父がバンバン叩いて見える様になったりしたのでよく真似をしたりしたが映る事は無かった。
父とよく見ていたのは「シャボン玉ホリデー」クレイジーキャツやザ・ピーナッツが出演していてお笑いやコントそしてジャズのスタンダードナンバーなどよく演奏していたしピーナッツの歌は上手でした。
子供心にも彼女達のスターダストは「いいなぁー、もう終わっちゃうのか〜」と思っていた。
必ず植木等さんが乱入して「および出ない、および出ない・・・こりゃまた失礼致しました。」と毎回、終了するのが面白かったのです。
坂本九さん、「ジェンカ」 🎼レッツキス頬寄せて〜から始まるホークダンスが流行り、一緒に出ていたトッポジージョが大好きだった。
その時、天地真理さんが人気アイドルで決して歌が上手いとは言えなかったが凄い人気だった。
なんの番組だったかな?
この頃、後に高度経済成長と言われた時期だと思われるのだが本当に昭和35年を基点にさまざまな番組が制作されている。
私は幼稚園に行きながら帰ると近くの遊園地に遊びに行った、その頃だいたい決まったガキ大将が遊園地を仕切っていて大人達はそれをよく思っていなかった。
しかし、私は彼が上手く遊園地内をコントロールしているからトラブルがないと感じていて、どうして大人達が嫌がっているのか不思議に思っていた。
後に彼ら家族は引っ越してしまった。
ある意味、人種差別的な問題だったと後に知ることになる。
夕方になると親達が「○○夕飯だよー帰っておいで!」と呼ばれて、一人また一人と帰っていく、帰っても誰も居ない私は一人、遊園地に残った。
でも、たまに早く帰った父が「○○子〜!アトム始まっちゃうぞー!」と呼びに来てくれた。
「鉄人28号」もあった。
ある時、夏だったのだろう夕立ちになり私は一人家に居たのだが、余りの怖さに押入れに入り、いつのまにか寝てしまっていた。
それを必死に探した両親「いたぞ!」の声で目を覚ましました。
いつの頃なのか定かではないのだが、両親はよく喧嘩をした。
やっと夕飯の支度が整っていざ食べようとするとチャブ台がひっくりがえるのだった。
まるで「巨人の星」さながら星一徹のチャブ台返しが見られるのだ、最初はただビックリして怯えていたように思う。
しかし、せっかくのご飯も食べられない、元々食の細い私はそれほどの事は無かったが、「何故?この様な事が起こるのか?」小さいなりに考えた。
そして最終的に私が原因だと思うのである。
それは途轍もなく哀しい事だった。
でも、私にはどうする事も出来なかった。
私は母の思う様な子供ではなかった。
あの時代に女性が自立できるほどの仕事をしていた母はいつも強くて、きっと父も耐えられない自尊心を傷つけられたのであろうと思った。
私は母に捨てられるのではないか?と思っていた。
そして、いつの頃だろうか?「父と別れたら、どちらについてくる?」と聞かれた。
父の事は大好きだった。
しかし、ついていくなら母だろうと思った。
本当に哀しい事だった。
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