となりの客はよく…いや…まてよ
「となりの客はよく柿食う客だ」
きっと季節は秋で朝晩は10℃くらいになり始めた1年で一番過ごしやすい時期に、たまたま電車でとなりに座った、よく知らない「おっさん」なのか「おばはん」が、お弁当のタッパーからきれいに皮のむかれた固めの柿を音を立てながら食べている。それを気づかないふりをしながら、「また柿?」「え!また柿!?」と思いながら楽しんでいる光景が僕には浮かびます。
人によっては、楽しんでいるのではなく、寝ようとしていたのにうるさくて怒っていると浮かぶ人もいるかもしれない。
「よく柿食う」にも量的な曖昧さがあり、さすがに3個食べてたら食べ過ぎでしょ?と感じる人もいれば、3個は食べるでしょ?と感じる人もいる。
1つの簡単なセンテンスでも多様なことが分かる。これら1つの事象に対して複数の確率があるわけだから、無限の事象がある社会において他人との考え方の一致の確率はほぼ皆無。
なにが言いたいか、「他人のことなんて分からない」を起点にすること
あきらめに聞こえるかもしれないが、僕としては出発点としての起点です。「他人のことなんて分からない」から想像力を膨らませようということです。
コロナでの死者数は感染して亡くなった人だけではない。数字には出てこない人がたくさんいます。進まない経済対策の犠牲になってそれまで積み上げたものを失った人がたくさんいます。
「生活を変える」「業態を変える」ことができなかったんだから自己責任でしょ?という考え方ももちろんあるが、変われない事情がもしかしたら…という想像をなしにして自己責任を追及することがない社会であってほしい。
となりの客はよく…いや「この柿、もしかしたら糖分がふつうの柿の何倍もあるおいしい柿かもしれない、一口くださいって言ってみようかな」
となりの客はよく…いや「この人、朝からなにも食べてないからこんなに食べるのかな」
他人を責め、考えることから逃げがちな現代、未来の子どもたちが暮らしやすい社会となるために「他人との違い」を前提として「想像力を膨らませる」こと。
これが、僕にできる未来のための今できることです。
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