自分の励まし方
こんばんは。大雨による雷に怯えているアラフォーです。
私は、酷い虐めにあったり、両親からも褒められる事はあまりなかったり、と、肯定された経験が少ない。
なので、それが嬉しい事だと理解出来ず、励まされて喜んでいる人を見て、肯定されるって、嬉しい事なのだなぁ、と学んだ。
カウンセラーさんから、「私らしく生きる」ことを提案して頂いてから、ずっと、自分を肯定することに努めている。
然し、すぐに自己否定をしてしまう私にとって、これは難行苦行だ。
私は、自分を褒める事をした事が無かったが、精神病を患う以前は、同僚や友達を褒めたり慰めたりすることは、自画自賛で心苦しいが、ピカイチだった。
私が励ました人は、皆、瞳をキラキラとさせて帰って行った。
私は、それが嬉しくて、堪らなかった。
日常生活を送る中で、素敵な言葉を見つけると、自分の胸の引き出しに仕舞って、いざ、人を励ます時になったら使おうと、心の中に、言葉バンクを作っていた。
人は、肯定されると、嬉しいのだなぁ、とつくづく思った。
父は、特に厳しくて、褒められた事は一度も無かったと言っても過言では無い。いつも、否定ばかりだった。
母も、優しかったけれど、厳しくもあったので、肯定されることは多くはなかった。
人を褒めることは出来るけど、自分を褒めることは、難しい。
なので、私は、自分を相談者に見立て、励ましているつもりで、自分を肯定してみた。
虐めや、姉からの暴力等等、辛い事も、必死で乗り越えて来た。
しっかり、自分を見つめて、向き合って来た。
逃げずに頑張って来たんだね、自分。辛かったね、自分。よく頑張ったよ、偉かったね、自分。
自分探しなんて言葉は、自分と向き合うことからの逃げにしか聞こえない。
探しても、答えは自分自身なのだから、見つかる筈がない。丁度、頭上の眼鏡の様なものだ。眼鏡が無い、と言って探しても見つからない。自分と向き合えば、頭上に眼鏡があることに気が付く。
自分を肯定すると、心が満たされていく。幸せを感じることが出来る。
今が幸せか否かは、心次第。
何不自由無い生活を送っていても、不平不満ばかりでは、幸せでは無い。
貧しい生活を送っていても、感謝があれば、幸せに感じることが出来る。
自己肯定感が死んでいた私には、自分を励ます時が来るとは思わなかった。
けれど、自分を救えるのは、自分だけ。
生まれてきた意味のない人は、いない。
生きている価値の無い人なんて、いない。
全ての人は、神様から許されて、生まれてきたのだ。残念ながら、私のおクソ姉でも。私を虐めたクズ野郎達も。
おクズ様達は、私を成長させる為の砥石だったのだ。
苦しかったことを、乗り越える前と後では、きっと、私は違っている。
この先、どんな辛いことがあっても、私は、きっと、乗り越えられる。
だって、今まで、乗り越えて来たのだから。
以前の私は、自分を信じられなかった。大嫌いだった。
今は、好きにはなれなくても、私は、私を信じている。
自分を信じることが出来なければ、人を信じることも出来ない。
私は、悩み苦しんでいる人の救いの光になりたい。その人が、苦しみを乗り越えられると、信じてあげたい。
だから、私は、私を信じる。
これから先の私の人生にも、沢山の困難が待ち受けているだろう。
だけど、それを乗り越えた先にいる私を思い描く時、どんな風に成長した私が待っているのだろうか、と思うと、胸が躍るのだ。
自己の人格の完成に近づいていく私を、私は楽しみにして、これからも歩んでいきたい。
稚拙な文で、申し訳ない。
この文が、些かでも、読んで下さった方々に裨益するところが有れば幸甚である。