ユリシーズ
「ユリ!おいで!」と呼ぶと一瞬逃げようとしたがゆっくりと振り返りこちらをうかがうように見てから歩いてきた。抱き上げると心なしかひと回り大きくなったような気がする。『いい生活されてもらってたんだな』と思った。腕の中で甘えるでもなく、かといってあさっての方を向いて無関心というふうでもなく、久しぶりに会った飼い主を不思議なものでも見るようにみつめている。この子も頻繁に「飼い主」が変わって混乱しているのかもしれない。まだ成長しきっていないキジトラの保護猫を飼い始めた親友を襲った突然の病。死期を悟った彼女はこの子を自分に託してくれた。大事な忘れ形見だ。
「ユリちゃんずっといい子にしてたよ。さやか毎日ユリちゃんと遊んでた。お兄ちゃんも最初は『家の中に猫がいるなんて嫌だ』って言ってたけど今はすごくユリちゃんが好きみたい。昨日もこっそりおやつあげてたし。今日でユリちゃんがいなくなっちゃうなんてさみしい。さやかもユリちゃんみたいな猫ほしいな。」
「お休みの日はいつでも顔を見に来て。ユリちゃんも喜ぶわ。」
弟家族には本当に面倒をかけてしまった。母の急激な症状の悪化と入院そして看取り、通夜、葬儀まで義妹がいてくれなかったらいったい自分はどうなっていただろう。融通がきく仕事とはいえ仕事を持ちながら、またまだ手が離れない子供がいながら毎日足を運んでくれたのだ。さらにはすべてが終わった後精進落としの席でまさか今度は自分まで過労で倒れて入院となり、弟夫婦にまたもや迷惑をかけてしまう事になるとは・・・。
俊子が躊躇するそぶりを一瞬するユリをケージに入れ終わるとふいに幼い姪は俊子の顔を覗き込んできた。「ユリちゃんって男の子だよね?なんでユリちゃんって女の子みたいな名前にしたの?」
「ユリちゃんは私がもらって家にきた時にはもう名前が付いていたの。前の飼い主がその名前を付けたのよ。」
「ふうん、そうなの。」それでも不思議そうな顔をしている。
俊子の家までの車中さやかはずっと友達が遊びに来てユリをかわいいと言ったとか別のお友達の家にいるペットの猫の事とかとめどなく話していた。彼女なりに日常の変化を受け入れようとしているのだ。姪にとっては小さなペットロスなのだろう。もしかしたら近いうちに弟家のリビングルームには小さな子猫がちょこんと座っているかもしれない。
自分を疲れさせないようにという気づかいでそのまま荷物とケージを運び込むなりお茶も飲まずに帰って行った義妹と姪。地味で控えめで口数が少ないのにどこか一本強い芯があって頼りになる。そして常に俊子の味方になっていっしょに戦ってくれる。いい人を家族に持ったなあとつくづく思う。
この数週間にわたってバタバタ続きだった部屋の中を見渡す。部屋は俊子の入院中に義妹によって片付けられきれいになっていた。母といっしょに長く住んだ今は空虚になってしまったこの部屋。これからは自分ひとりで永遠に近い時間を過ごすのだと俊子は一抹の寂寥感にとらわれた。しかしすぐに猫のニャーという鳴き声でそれはかき消された。そうだお前がいたじゃないか。自分と同じ結婚することもなく生きてきた親友がいっしょに人生の荒波を乗り越えようと迎え入れた小さな相棒。彼女が果たせなかった冒険にこの子といっしょに乗り出して行こう。
「これからもよろしくね。ユリシーズ。」ケージから出た猫は全身で伸びをしニャーと小さく鳴いた。