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優しい嘘をお願い その1

 私は言葉を失った。なぜ?どうして?私は尋ねられるまま自分の思うところを彼女に話しただけだったのに。それなのになぜ恨まれなければならないのか。むしろ彼女のためになることで感謝されて然るべきことですらあったといえるのに。
2か月前の雨の夜、傘も持たずに突然私の家に飛び込んできた彼女。激しい夫婦喧嘩の末、行く当てもなく飛び出してきたのだ。
 英美は夫とうまくいってなかった。愛情がたっぷりあった時にはよかったが年月がたって冷めてくると彼女の気性の激しさと日々くり返される小言やら様々な要求に夫は辟易し始めた。彼女はと言えば夫が自分に対して興味を失っているように思えることが我慢ならなかった。そしてだんだんと夫婦喧嘩がエスカレートして暴力も伴うようになっていった。最初に手を出したのは私が思うに彼女だろう。口論中に頭に血が上った彼女が見境なくなって殴りかかったに違いない。夫のほうは彼女の暴力を防御するうち手が彼女の身体に当たったりやむなく『攻撃は最大の防御』的に始まってしまったのだろう。夫が本気で暴力をふるっていたなら彼女は大けがか悪くすれば死んでいただろうから。夫婦関係の悪化により夫は実家に避難することが多くなり、なし崩し的に別居が始まりかけていた。
 英美にはいつも一緒に行動している妹分のような女友達ジュンコがいた。ジュンコも結婚生活で問題を抱えていて英美の結婚生活が破綻しかかっていたまさにその時はジュンコは夫が単身赴任するという形で別居を始めていた。彼女たちは実の姉妹のように仲がよかった。いっしょにショッピングに行き、いっしょに映画に行き、いっしょにレストランに行き、いっしょに家でTVを見、たわいもないおしゃべりに時間を過ごした。いくらか経済的に余裕のある年上の英美が妹にするように何くれとなく面倒をみていた。彼女たちは、はた目には本当に仲が良かった、けれど彼女たちの双方の内面はその時点でどうだったか今となっては分からない。というのは彼女たちの間にとんでもない事件が起こっていたから。
 あの雨の夜に話を戻そう。彼女が突然わが家に現れ一晩泊めて欲しいというので近所に住む共通の友人たちを集めてピザをオーダーし彼女が持ってきたワインを開けた。人生の「危機」のさなかにいる彼女を励ますため急ごしらえの女子会はそれなりに盛り上がった。そして友人たちも帰って行った後、真夜中少し前に「じつは・・・」とここに来た本当の理由をポツリポツリと語りはじめた。
 半ば別居と言っても夫婦の間には子どももいるし彼は荷物もあることから家族団らんというのはないにしても夫は頻繫に彼女の家に帰ってきていた。それまで彼女に対する興味が薄れ関係も悪くなっていたとしても英美は夫に女性の影を感じることはなかった。ところがある日アパートの駐車場に止めてあった英美の車のドアが傷つけられる事件が起こった。一体誰がこんな悪質ないやがらせを・・・?一番最初に頭に浮かんだのは夫の顔だ。問い詰めると当たり前だが『自分はやってない』と言う。被害届は出したものの忙しい警察が十分に対応してくれることはなく犯人が分からないまま日にちが過ぎていた。
 その雨の日の夕刻、英美は娘が友達の家にお泊りにいった後、顔を出した夫と二人でこれからのことを話し合おうとしていた。ところが、というか案の定というか、穏やかな話し合いをするはずがいつの間にか口論に発展していた。激しい言葉を浴びせあった後どういういきさつでジュンコの話を彼女の夫が持ち出したのかは分からない。
 英美の夫はニャッと笑った。薄暗い部屋の中ぼんやりとしたテーブルライトの光の中に浮かび上がった浅黒い顔の中の真っ白な歯はさぞかし不気味に映ったことだろう。そして信じがたい事を話し出した。「お前はジュンコを信用してるのか?・・・お前の車を傷つけたのはジュンコなんだぞ。」と。そして次に続く言葉は彼女の心を打ちのめした。「俺がやらせたんだ。俺が命令して彼女にお前の車を傷つけさせたのさ。」
 言うに事を欠いて何て言う事を言い出すのだろう?ジュンコが私の車を傷つけた?なぜ?いつもあんなに仲良くしてるじゃない?それなのに何故?疑念と不安と失望が渦巻いていて頭が爆発しそうだった。『しっかりしろ!私!』そもそも夫がでたらめを言っているかも知れないじゃないか。ジュンコに直接聞いて確かめればいいのだ!
 雨はいつの間にか上がり雲の切れ間から星が光っていた。「そしたら・・・、ジュンコ、ポロっと白状したの・・・。自分がやったって・・・。」英美は疲れたように淡々として語った。狂乱を通り越して平静に落ち着いたのだろうか。「そんな・・・、ジュンコさんは貴女の大親友じゃないの。信じられない!」 ジュンコはとんでもない女だ。いつも英美といっしょにいてさんざん世話になっているのにその実、心の中では英美を憎悪していたのか?そして命じられるまま英美の車に傷を付けておいて何食わぬ顔でまた英美と仲良くしていたのか?そんなに嫌いなら、そもそも仲良く付き合うのをやめればいいじゃないか?しかし不思議な話だ。相手をいくら嫌いだとして、実際に車を壊すという犯罪行為に及んでしまうのか?そんなことをされるほど英美はジュンコに悪いことをしたのか?

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