教育ドキュメントを観たのだが
クラス崩壊のドキュメントを観た。
クラス再建のために教育コンサルタントがやってきて、子供の声を聞き、触れ合う時間を多く持たせるやり方だった。
中高と、逃げ回っていた私がいうのも変だし、やり方に対して、つべこべ言えないかもしれないが、これは1時(いっとき)のことだろうな、と予感した。
なぜ、クラス崩壊したのか?といえば、恐らくは教師と子の時間が足りないからではないか?と観ていて思った。
ただ、現在は教師も多忙だ。
部活もテストの丸つけもやらなくてはいけない。
番組は地方の学校だったが、都市になれば、まだ業者に事業委託できるかもしれないが、スポーツジムから先生を連れてくるのも難しいかもしれない。
だけど、いざとなれば資格だの、経験が必要だの言って、素人には触らせない教育現場でもある。
本当に、そこまでこだわっていて良いものか?とも思う。
教育格差をチラと聞いたが、余裕ある家庭はドンドン、子に投資して、色んな経験もさせられる。
部活が、教養として習うべきものだったころならまだしも、内申に響くとか、心身鍛錬だけの目的は、やはりおかしい。
「知ることができる」というのは教養であり、それに理解を促すのが教育であろう。
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ドキュメントのなかで臭く思ったのは、先に言った一時しのぎなだけで、コンサルタントが、その時だけ結果を残した部分である。
ここからは、私の歪んだ偏見になるが、話し合いにより教師と子供を結びつけた…云々とあるが、要は必要なのは手入れではないか?
話し合いは、触れ合いである。
それが少なくなったら、心ここにあらずなら、互いが分からなくなるし、離れていく。
クラス崩壊するのが当たり前である。
たぶん、話し合いではなく、別のアプローチであっても良かったかもしれない。
養老さんなどは子供は自然であり、手入れ(面倒見)が、必要であるという。
大人は原因と結果を出したがる。
話し合いは頭脳であり、生活に関わることは、毎日の心身を含めたものであろう。
また、養老さんは、脳は効率的で意味あるものしか見ることが出来ないという。
その通りに考えれば、自然(子供)は予測できないし、大人の都合に合わせてくれない。
従って、自然あってはならないものになる。
ここから、少子化や子供を受け入れない、高度に脳化された現代を読み解いていくのだが、詳しくは養老さんの御本を読んだ方が早い。
大人は忙しすぎる。
昔のような自然相手の仕事も忙しかったろうが、頭脳や効率的な仕事に代わり、その視点から生活を見るようになるのも、忙しない。
いちいち意味を確認して強迫的だ。
生活まで効率的なやり方や因果関係を求めるやり方が入り込む。
そうすれば、より忙しなくなり、意味が無いことはあってはならないものに変化していく。
私が散々まえから良いことの弊害を書いているが、良くないこと、忙しくないことを如何に守るか?も、大事になってくるに違いない。