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問題は世代間でも違う

たぶん…いや、親の問題と子の問題は別である。

子は親に影響を受ける。

だけど、いまを生きるのは親や子別々なも事もある。

むかし、母子分離が難しい…云々と、心理関係から言われたが、いまでは、逆に各々がネットで別々の好きなことをやっているように見える。

これは、前世代にとって共有空間や時間が無い寂しい光景に見えるかもしれない。

しかし、それが今の流れなら仕方ない部分もある。

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八割がた良くないのは、親が子の問題は自分と同じである、また同じにさせようとすることだ。

これは無理矢理、共有できることを強いている場合もあるし、その方が親は子の理解をラクにしている場合がある。

しかし、人間は世の中に影響したり、されたりするもので、しかも今と昔では事情も違う。

親が同じ感覚で子に接するのが良くないのは、たとえば問題行動は親の経験則と同じだろう、とした場合に勘違いを生むことがある。

昔から、普遍的なことかもしれないが、何か問題があった場合は、それは結果であり過程をみる見なら、その内容は多様になることがある。

問題の過程なり背景には、哀しみや、憂さ晴らし、世の中への挑戦があるかもしれない。

それを単に哀しみや不幸だけに限定するのはおかしい。

河合隼雄などは、若い子が暴力で時に大人世界に挑戦するのは、己を罰して欲しいとか、大人に止めてもらいたい、というのがある、と語った。

世の中を見ると、大抵は子の問題にポジティブになるよう接したり、否定(叱るなど)は止めようとか、聞こえのよい話がある。

しかし、内容によっては罰したり、法や体制で止めなければならないこともある。

無論、逆に話を聞いてもらいたかったりと、慰めを求めることもあろう。

釈尊の言った方便…その時々で相応しい対応や在り方が求められるのだ。

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