傷(トラウマ)は個人のものか
トラウマにせよ、なんらかの問題にせよ個人のものにする風潮はある。
話によれば、昔も似たようなものだと言われ、昏い個人の話が浄化されたり、抱擁される話は私は聞いたことない。
トラウマについて、心理士などは人間全体が受けたものは、彼らが共有や共感されやすいが、見ず知らずの者には、なかなか理解されにくいという。
どこまでが真実か分からないが、河合×村上春樹の対談では、傷やトラウマは、日本では排除の対象になる、穢れとして見られる、とあった。
しかし、いまは海外の情報も入り、人類的な共通性、または生物的な弱肉強食などを鑑みると、弱い、弱るというのは、原理的に見れば、不利であるといえる。
傷ついた野生動物が仲間からも構われなく、自分でジッとしている、アレである。
だから、文化は弱ったものを包容するのだが、人間の隙間から出る野生・本能から、傷ついたものの放置が、あるように見える。
あとは、戦いなどあれば、傷ついた同僚を抱擁しては足手まといになるから、置き去りにするというパターンだろう。