印象を大事にして深みを覗く

感性というのは、芸術界隈でしか中々使われないし、普段生きている限りは、効率や合理性…頭の回転の方が求られる。

四半世紀前に比べ、いまはこんなに仕事が「モダンタイムス」だったろうか?と思う。

国が斜陽になったり、少子化云々が大変でも、一日は限られているし、できることは実は少ないこともある。

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感性は自分を取り戻す手段でもある。

物事がたとえ、嫌であってもしないといけないとき、それをどう感じたか?を思い出し感じるのが、自分の感じ方だ。

無理に飾った言葉で、感性を曲げるのは良くない。

痛いものは痛いし、痛いものに快感を与えるのは薬物で誤魔化すようなものだ。

世の中の趨勢として、たとえ物事が良くなくてもポジティブに見ようというのは、相変わらず続いているが、ポジティブにさせながら、内面を歪ませていくのだから、次第に感覚も狂っていくし、内奥から出てくるものも、歪んで出る。

(実際出来なくても)1番よいのは、泣く時に泣き、怒る時に怒ることなのだ。

昼間、酷いことに耐えて、夜静かに泣く時、素直な感情や感覚は生きている。
それを嘘にしてしまえば自分を殺す。

辛い日常は変わらないが、辛かった自分は生きている。

自分で自分を殺さない。

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共感過剰というか、他人も自分と同じだろうというのが良くないのは、自分の内に発生した…時に大事な感覚や予感を分からずじまいにすることだ。

共感過剰もまた、自分を殺す。

一体感は安心のためにある。
かなり本能的に近い部分かもしれないし、意図して造られた文化的なものかもしれない。

全体主義はよくない、またはトラバラズムの過剰は個人を仲間として守るかもしれないが、行き過ぎれば、個人を無くす。

あるいは、ツイッタに感じる不気味さは、道理や正論、見ればわかるでしょ?みたいなものを確固として、例外や可能性を損なうことだ。

それらに同調すればする分、自分の…たとえ小さな声も、聞こえなくする。

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ドナ・ウィリアムズの自閉症の本を読むと分かるが、世の中というのは、正解を作りたがる。

その集団で流行ったり、ありふれているものに、誰もがなりたがる。

このやり方が正しく、そこでの考え方も疑いもなく信じている。

いまは、かなりその傾向が純度の上がった状態に感じる。

年配の専門家などは、それを同調圧力など言うだろうが、私には奇妙な宗教性すら感じる。

ここでいう宗教性とは、何かになりたがり、それに身を馴染ませながら、やることに違和感をなくしていく事を言う。

たとえ、それが見た目が正しかろうが、捨てきれない妙な印象があり、全体としては仕方ないにしても、おかしく不条理さえ感じる。

世の中の純化された物の捉え方というのは、実は正解以外のもの、例外や可能性を犠牲に出来上がったものでもある。

もちろん、幾らかの魂も売っているだろう。

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