宗教性を色々考えてみる
伊集院さんの番組で、組織や集団、グループは、すでに集団という宗教である話を聞いてなるほど、と思った。
何かに救われたり、そこで価値を見いだせるから、そこに居られるわけで、居られないから、他所に移るのだと思うと、更に納得した。
家族をトラバリズム...部族主義とかいうけど、その古さをいえば、アニミズムや古代宗教が絡んだ大家族を...あげるまでもないだろう。
宗教はすでに教義や経典が出来上がっているが、文学は過程であり、科学は事実や物事を疑ってかかる部分があると私は思う。
宗教者の中で希に妙なことをする場合、実は過程や疑い...プロセスが欲しかったのではないか?と思うことがある。
より良い事は、破壊しなければ手に入らないことかあるように、ひとつ上のステージに個人(集団?)が上がるためには、必要な事かもしれない。
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いま、歴史物を読んでいる。
というか、自分に必要だから読んでいる。
何も知らなければ、何も疑いようにも、何も発見もない。
初学者がいうのも何だけど、宗教などはツールや道(どう)に過ぎないと、見えることがある。
還俗して将軍になったとか、放埒な生き方が嫌になり出家したとか、放蕩な生き方に疑問をもったとか、様々である。
ゆく道もあれば帰る道もある。
当たり前≒常識に守られるのは安心や安全を生みだす。
そうしていれば間違いないからだ。
しかし、その常識でさえ疑わざるを得なくなれば一度、破産して考え直す必要がある。
そして、理解したり、新しい常識...世の中の見方が分かったら、山を降りるように「還俗」する。
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出家は家出なようなもので、むかしは非行に走るような勢いに見られたらしい。
今は宗教法人で、食いっぱぐれがないと見られるかもしれないが。
現世の間違いなさを捨てたり、誰かの期待を裏切ったり、世を捨てるとは相当な覚悟だったのだ。
まぁ、すぐに戻される言葉に溢れかえっているのが今日だが。