
「わたし、HSPなんでぇ」と平気で言える人の中にHSPはいない。
ここ数年で流行した「HSP」。
メディアの影響なのかこれを免罪符のように濫用する人が増えていてモヤモヤする。
HSPという言葉が流行る前は、繊細で感受性が強く悩みやすい人間はただの「ストレス耐性のない打たれ弱い人」とされ、ひたすら「鈍感力」を鍛える事を強いられる肩身の狭い思いをしてきた。
「気にしすぎ」「深く考えすぎ」で一蹴されて「なんか生き辛そうだネー」と半笑いで憐れみの目を向けられる。この気質を持って生まれた自分を恨んだ。ひたすら見ないふりをして鈍感になる努力をした。
ただ生まれ持った気質が変えられるはずもなく、勝手にありとあらゆる情報をキャッチして思考を始めてしまうので、鈍感力というそれらを見ないようにする真逆の行為は、ひたすらに自分の魂を削っていくだけだった。
出口のない暗闇を歩く中、ある時本屋でHSPという言葉を知った。まだメディアで流行する前だった。救われた。涙が出た。もう自分をこれ以上責めなくていいんだと。この繊細さと感受性は恥じるものじゃない、むしろ誇るべきものなんだと。憎んでた自分の気質をはじめて受け入れる事ができた。
私にとってHSPという言葉は鈍感力を強要される生きづらさの中で「そのままでいいんだよ」と優しく寄り添ってくれるおまじないのようなものだった。
それからしばらくしてテレビやネットでHSPという言葉を目にする機会が増えた。HSPに関する本も沢山出てきた。最初は特に何も思わなかったが、段々あまりにも執拗に大げさに取り上げ過ぎてると感じ始めた。「HSP」を商品化して大々的に売り出しているようなきな臭さ。食いつく人が多いから売れるのだろうか。メディアの玩具にされ御輿を担がれ、私のおまじないだったはずの言葉がその力を失っていくのを感じた。
そしてその辺りから「わたし、HSPでぇ」という人があちらこちらで出没するようになる。
「わたし、実は隠してたけど、とある一国の姫なの」と言わんばかりのその様にとてつもない違和感を覚えた。
この人達からは繊細さどころか「わたしはHSPだから繊細で傷つきやすいの。だから弱いしすぐ病むけど仕方ないの。許してね。優しくしてね。」というむしろ真逆の厚かましさすら感じる。
受け取る相手がどう感じるのか、想像する事ができていない。自分の苦しみを知ってほしいだけ。アピールしたいだけだ。
それは自己愛が強いとかメンヘラ系の類で、繊細さとはまた別の話だと思う。
まるで免罪符のように濫用する人間が増えると、今度は「繊細アピールうざい、打たれ弱いだけだろ、少しは我慢しろ、繊細なやつはただのかまってちゃん」と、また鈍感力至上主義が始まってしまう。そのうち繊細ハラスメントとかいう造語すら作り出されてしまうかもしれない。
やっと少し生きやすくなったのに、これでは逆戻りだ。
そもそもHSPが誇るべきは静かな洞察力、鋭い分析力、想像力、物事の本質を見抜く力であってその代償としての繊細さや感受性の強さは嬉々としてアピールできるような代物ではない。社会で生きて行く上では変わらずハンデなのだ。
心の柔らかさ故に攻撃対象にもなりやすいので、自分でその気質は受け入れつつ、外では多少なりとも鈍感な鎧はつけておいた方がいい位だ。その鎧を付けても尚、周囲に気付かれてしまう、それほど逃れられないものなのだ。
ただその人達を責めたいわけじゃない。
彼らもまた悩みを抱えて生きているからだ。
怒りはその風潮を促したメディアにある。