11/16 『ジェノサイド 下』を読んだ
父の謎の遺言、謎の潜入作戦、謎のパソコンソフト、謎の新生物……と幾重にもミステリアスの糸が張り巡らされていた上巻から、下巻はそれらの糸が大きくうねりながら人類種の命運という一本の手綱へと縒り合されていく怒涛のサスペンスへ。ストーリーが単調にならないように研人たち日本サイドとイエーガーらアフリカサイドに加えルーベンスから見たアメリカ政府サイドの視点も加わる(正確には上巻の第二部開始時点からもう加わってるけど)。まったくエンターテイメントとしての作品強度の高さに敬服する。「まるで映画を観ているかのよう」という言い方でちゃんと褒め言葉になっているかわからないけど、そんな感じ。書かれている通りに舞台と道具と役者を用意して、書かれている通りに演じさせれば、それだけで超大作映画が撮れる。逆に言えば、制作されて公開されれば全米全世界大ヒット間違い無しな作品であるようなものを、一人の力で書けてしまう小説とは改めて凄いもんだよなとか、そんなことを思ったりした。もちろん巻末の謝辞や参考文献にあるように膨大な量の資料参照や取材を要したりもするんだろうが。
一方で資料に当たるだけでは描けない、新人類の知性が垣間見えるところもよかった。進化した人類に対して旧人類が滅ぼしにかかるというところは『ブギーポップ』を彷彿とさせたが、旧人類が未だ発見していない概念を交えた会話をしているところじゃ『蒼穹のファフナー』のエスペラントが彷彿してくる。俺得だ。知性の前提が違うんだなってのが一発でわかる。
対する旧人類側の醜態は、対比されるんだろうなとわかっててもやっぱりキツくて、イエーガーが自分が戦ってる相手が少年兵だと認識した次の場面でその少年兵の人生が端的に語られるのとかも勘弁してくれよって感じだった。アメリカ政府首脳部の傲慢さも、本作発表された時は別の大統領が念頭に置かれていたのかもしれないが、今この時期に読んだのは、なんか……効果倍増!……だったのかな? まあわかりませんけども……。でも自らの種の愚かさを儚んで、上位種に殺せ!と願うのもそれはそれで愚かな振る舞いではあると思う。現実の世界の状況と照らし合わせてみても、そういう捨て鉢な姿勢だって結局安全圏の高みにいてこその発想で、種として自滅に向かっていくのだとしても先に死んでいくのはアフリカの少年兵のような弱くて貧しい、末端の人々からなのだ。捨て鉢な態度で、その長い列に大人しく並べるものだろうか。安全圏の高みにいられる内に、少しでも延命できる手立てを探しておかねばならないのだ、本当は。だいぶぼやけた話になってしまったけれど、人類全体のことを考えようとすればこうもなる。
しかし最後のイエーガーの「猫でも飼うよ」という台詞はまた、どういう意味なんだろう。現行人類を遥かに超える知性を目の当たりにし続けてた筈なんだけど、それでもアキリを畜獣扱いということだろうか……? 一人の父親として国家を敵に回して命がけの任務を遂行してなお、種としての次世代へ向ける視線が未だそうなのはどうなのかしら。悪く取りすぎか? アメリカ人の小粋なジョークだったのかな。
ともあれ面白かった。続編……はきっと、今のこの世界がそうなのだ。新人類に今の現生人類の状況を見てどうですかと聞いてみたい、なんてことはなく、しっかと自分で見て聞いていかなければな。見聞きできるうちに。