満月

新宿方丈記・15「遠い日のイルカの話」

もう10年近く前になると思うが、一度だけ、油壺マリンパークに行ったことがある。今はきっと色々新しく変わったりもしているのだろうが、当時は取り立てて何があるということもない、ごくごく普通の昔ながらの水族館だった。水族館、それもあんまり人のいない、平日の昼間の水族館が大好きな私は、その何もなさがとても居心地がよく、楽しかったのを覚えている。水族館らしく、イルカのショーなどもあるのだが、一番印象に残っているのは、というよりほとんどその印象しかないのだが、イルカショーとは別に表にプールがあって、そこにいた2頭のイルカたちのことだ。円筒形のプールで側面に窓があり、水中の様子を見ることができるようになっている。ちょうど私の前にいた女の子(というよりは金髪のもろギャルだった)が、携帯片手に窓のガラスを叩いたことでイルカの機嫌を損ねたらしく、イルカは窓に体当たりを食らわしていた。ギャルはツレの男の子に「なんか怒ってるっぽい」だとかなんとか言ってみるのだが「ふーん」と相手にされず、早々に飽きてしまったらしく、二人でどこかに行ってしまった。さて、私も窓から覗いて見ると、件のイルカと目が合った。間近で見ると人間みたいな目をしている。実に思慮深い表情だ。水中のイルカに聞こえるはずもないが、私は声に出して言ってみた。「こんにちは。調子はいかが?」すると向こうはさっきのギャルとは人種が違うと気付いたらしく、私に目配せして頷くと、身を翻して水槽の奥に去っていく。次の瞬間、もう1頭のイルカと連れ立って戻ってきて、2頭で揃ってくるんと円を描いて見せてくれた。そしてもう1回。さらにもう1回。これぞシンクロ、という見事な揃い具合で。

本当に一瞬の出来事で、目撃したのも私一人だったから証明も何もできないが、これって絶対、以心伝心とまでは言わないけれど、何かが通じていたんじゃないかなあ、と今でも思っている。おそらくイルカにしてみれば、自分たちに対して友好的なやつがきたから、ちょっとサービスしてみた、くらいの感じだったのではなかろうか。そのあとも窓にくっつくくらい間近にきて、まじまじと顔を見せてくれたし(もしかしたら向こうもこっちを見ていたのかも)、水槽の上から覗くと水面に顔を出して寄ってくるし、イルカの知能の高さはすごい、なんて上から目線で失礼しました、あなたたちは人間と変わりませんね、と心の中で謝罪したのだった。

なぜ今頃急にこの話を思い出したかというと、先日見たニュースにあのイルカたちが出てきたからだ。なんでも犬が大好きなイルカで(油壺マリンパークはペット同伴可)、水槽の窓から犬が覗くと大喜びし、猫や人間には反応しないという。確かにVTRでは、犬にははしゃぎ、人に対しては無反応のイルカたちが映っていた。ん???じゃああの時、私は犬に見えたのだろうか。…まあいいや。心無い人間より、心ある犬と認識された方が嬉しいよ。何より、その心遣いが、私は嬉しかったからね。あれからなかなか油壺まで行く機会がないけれど、もし再会することがあれば、犬扱いでいいからもう一度、回転して見せて欲しいなあ、と思っている。油壺の午后の霞んだ海、気づけば遠い記憶になりつつある。












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