できないことを無理してできるようになると、できない人を見下してしまいそうで怖い
自分は何をして生きていくのがいいのか、どの環境で生きていれば少なからず幸せと感じていられるのか、そもそもできないことを無理してできるようになったところでそれは私にとってプラスになることなのだろうか、などと考えていた。
自分にできないこと、他人にできないことが各々あるのは当たり前なのに「できる、できない」だけの基準で、下を見ることで安心しながらいままで私は生きてきたのかもしれない、とはたと気づいた。
それってめちゃくちゃ恐ろしいことで他人もそして自分も、もしかしたら潰してしまうような考え方なんじゃないかと。
そして同時に、なんて私は愚かで稚拙なんだろうと。
ツイッターで子どものうまい褒め方を描いた漫画を見つけた。
できたね、えらいねでは他のできない子のことを蔑んだ目で見るようになってしまう。だから、その子どもが行う事実をそのまま言語化して言ってあげるだけでよいとのこと。
数年前の障害施設での相模原連続殺傷事件。
犯人は障害者を殺し罪を犯したことで、役に立つ人間になったと答えていたそう。役に立つ人間と役に立たない人間。そもそも人間は生産性のあるものでなけらばならないという使命を持って生まれてくるものなのだろうか。
できる人がいればできない人もいるはずなのに、できる人だけがえらいなんて、なんて残酷なんだろう。
無理をしてでもできたことに意味があるのはもちろんわかる。それと同じくらい無理をしててでもできなかったことにも意味はある。
そしてありのままの自分で、やっていけることを、やっているだけでそれで十分なのである。羨望も、希望も、後悔も、執念も、ただありのままの自分をやっていくことへのパワーにしてしまえばいいのかもしれない。
できないことへの苛立ちとできることへの羨望の濃度が薄まることを考えながら生きていないと、自分も他人も傷つけてしまいそうで怖い。
それくらい想像もしなかったくらいに、人間は愚かだ。