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曽野綾子『魂の自由人』「平和の祈り」

もう長い年月、私が次第に嫌いになって来たいくつかの言葉がある。
「平等」もその一つであった。前にも書いたと思うが、平等の運命など一つもない。DNAが全く同じ人はほとんどないと思われていることがその証拠である。そのような架空世界が、今にもすぐ到来しそうなことを本気で信じることは、私にはできない。もちろん土地も人の運命も均されねばならない。一人が飽食して食物を捨てている傍で、飢えている人が死にかけているのは、納得のいく光景ではないからである。

ここでの平等は、誰一人として全く同じ運命であるということはあり得ないということ。それは平等という意味ではない。全てを同じようにすることは不可能であり、一人ひとりの個性に応じた生き方があることを尊重することが必要だということだ。しかし、すべての人が基本的な生活ができるようにすることは大切なことだと言っている。平等の意味は何もかもを均一にするということではなく、誰もが余裕のある生活を自由に生きることができるようにしていくことだ。

「人権」にももううんざりした。人権を尊いものだと思ったり、そのことにために実際に働くのにうんざりしたのではない。実際にはそのことのために少しのお金も、危険も、血も流そうとしないのに、言葉、署名、デモ、集会などの上だけで人権を歌う人たちによって、この言葉はホコリだらけになったのである。(ホコリには埃を当てても誇りを当ててもどちらでもいい)。

とりあえず人権をたてにして運動を起こす人たちがいたことは事実だ。

現在は自分のためではなく多くの人のために署名運動をすることで社会を変革できるようになってきている。

人権の要求する人の一つの精神のパターンは、他人に、「自分の事を大切に思え」と言うことである。
もちろん今までの制度に不備があったなら、そしてそれが発見されたなら、我々は改善を続ければいいわけだ。
しかし他人に、自分を尊敬しろ、とか、自分に謝れ、とか、自分を大切にしろ、とか言う人で本当にその目的を達した人は今までにいたためしがない。

どうしてだか、尊敬や謝罪を他人に強制する人がいる。何を目的としているのか分からない。

自分を尊敬しろ、と命じられれば、大抵の人は「はい」と従うが、尊敬を強要した人で、本当に偉かった人は見たことがない。
自分に謝れと言われれば、やくざの言いがかりでもたいていの人は謝る。しかし、心では少しも謝っていないどころか、内心ではそれだけで侮蔑と悪意が増殖しているのである。

謝っているように見えて正反対の意識を植え付けているような謝罪の要求は、理解不能だ。

要求しいばる人たちは、他人の存在がないと、自分の価値が決まらないのだ。自分の評価は他人の言動で決まる。しかし本当は他人の評価はどうでもいいのである。他人は私を知らないし、誰も本当の自分を知らせる方法などないからである。

他人どころか、自分自身を理解することもできないというのが事実であるなら、まずは私たちはお互いにほとんど何も理解することができないということを認識することが必要だ。

他者がいなくても、自分の生き方と人生を決める癖をつけておかないと、人間の心は縛られるのである。何かする時に、何よりまず、世間の評価はどうなるだろう、と気になるようでは、そうしても正しいことを貫くことができない。

正しいことを貫くことは本当に勇気が必要なことだ。その勇気がある人にはなかなか出会うことはできない。

・・・
人権を要求して、それで生かしてもらうより、私はできる範囲で人に尽くして、その結果として愛される人になろう、と考えたのである。・・・

曽野綾子さんは実に心優しい人なのだ。優しい心がなければ、わざわざしんどい思いをすることが分かっている多くの事は引き受けないからだ。

権利を要求して、してもらってもそんなものにはぬくもりがないだろう。
私はやはり何より「愛」に包まれていたかったのだと思う。

他人の愛を得ることは難しい。

けれども自分自身の自分に対する愛であるなら得ることは、何とかできそうなのだ。

・・・

イエスの時代から、いや当然、もっと昔から、世間の眼を意識した不自由な魂というものは、至るところにあったのだ。しかし自由な魂というものは、自分で行動の価値と目的を見いだす。世間がどのような精神的流行を追っていようと、そのような潮流に引きずられることはない。
魂の自由という問題を思い起こす時、最も端的に心に浮かぶのはアッシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」である。
フランシスコは十二世紀後半に生まれた人で、裕福な家の放蕩息子として生まれながら、のちに乞食坊主のような清貧の修道生活を送った人である。この祈りは、この厳しい現代にそっくりそのまま通用するような、痛切な響きを帯びている。この祈りは、ダイアナ妃の葬儀の時にも歌われた。英国国教会とカトリックは長い間対立を続け、最近は融和の方向に向かっているが、それでも統一には至っていない。その英国国教会が、あえてカトリックの修道僧の作った祈りを使ったのである。
「私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあることろに愛を、
いさかいのあるところに許しを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びを、
もたらすものとしてください。

慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、
私が求めますように。

なぜなら私が受けるのは与えることにおいてであり、
許されるのは許すことにおいてであり、
我々が永遠の命に生まれるのは死においてであるからです。」
要求することが市民の権利と定義する現代の流行と、これはすべて心理的方向性において正反対を向いている。
ここには要求するのではなく、与える者の光栄が輝いている。
単純に考えても、
受けることを待つ間の人間は固定されて動けないが、
与える場合には、自由に動き廻ることが可能なのである。

他人に縛られず、

他人の評価も気にせず

自らの意志によって

主体的に生きることこそ

魂の自由人であり、

生きる

ということなのだ。


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