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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「余韻を残す」

人生も四楽章から成っている

シンフォニーは、
急、緩、メヌエット(またはスケルツォ)、急、
の四楽章から成るという。
長編小説には型や長さの制約は一切ない。
第一楽章はやや堅くて、説明的で、味が悪い。熟していない感じである。
それが第二楽章になると、とたんにどの曲もそれなりにのびのびとしてしかも絢爛としてくる。語りたいという思いも、充分な遊びも、共に感じられる。
第一楽章は車のエンジンの掛かりたてと同じで、なかなか温度が上がらないという感じである。
それが第二楽章になると温かく、血がすみずみまで巡るような活気を見せて、演奏に艶が出て来る。
その頃、私が納得できなかったのは、第四楽章であった。最終楽章なのだから、いわば曲の思いの総括なのだが、どれも力み過ぎているように思えてならなかったのである。

・・・

人生にたとえると

第一楽章は、青年期の「宣言」のようなものだ。
学問や仕事の選択の時に示される、人生の好みや、時には理想のような者も高らかに謳い上げられる。
ただし、若い時に精神の起伏は稚拙で直線的で激しい。
あれこれ企み、試しにやってみてみていい気になったり、失敗して絶望的になったりする。
つまり論理が人生を主導する。
表現は非常に慎重で堅い。

これが第一楽章である。
三十代四十代になると、
生き方にかなり安定した自分らしい方向性ができるこのやり方でやれば、うまく行くだろうという経験則もいささか身につくようになって、自信にあふれる人も出るようになる。
しかもまだ未知の部分もたくさん残されている。

これが最も楽しくあでやかな第二楽章の原因である。
第三楽章については、今でも私はよくわからない。

人間の実人生でこれに相当するのは五十代六十代である。
メヌエットやスケルツォは三拍子で軽快なのが特徴的なのだそうだが、私の中年以後は、三拍子の軽快さなど全くなかった。

ただ現実に返れば、私の五十代六十代は本当にいい年月だった。
もう若くもないが、眼は見えるようになり、愛嬌で通る年ではなかったが、私は充分に人間になれた気がしていた。

私はもう背伸びをしていなかった。

いい友人が男女問わずたくさん増えた。
知的な会話もでき、自分をいささか開放してユーモラスな会話も板につく年頃になっていた。

子供は独立し、親は見送って、どこへ旅行するのも自由になった。
体力とお金はそこそこ釣り合いが取れて充実していたし、何より、私には死ぬまで広げていきたいテーマがはっきりと見えた時代だった。
そしてやがて人生の第四楽章にさしかかる。

実は私はシンフォニーの第四楽章で感動したことはあまりない。
しかしそれが大切なものだったということは最近になってわかる。

第一楽章のモチーフは、どこかでずっと生きている。

それが私の生活上の強力な好みだというものは
まったく変わっていなかったのである。
ただ何ごとでも締めくくりというものが必要なのだ。
芸術ではことに大切だ。
締めくくりこそが余韻を作る。
そして私は余韻のある人生に惹かれたのである。
以前韓国の慶州で新羅の鐘を聴いたことがある。
その余韻は一分や二分ではなく、信じられないほど、長く事の山裾に漂っていた。

その音をどう聴くかは人による。

ただ余韻というものは、何より高圧的でなくていい。
こう感じなさいという命令的なものは一切ないのである。
しかし
切々と訴えるべき思いは豊かに蓄えられている。

そこで出てくるのが

シャルル・ド・フーコーという神父の話だ。

シャルル・ド・フーコーは1858年、フランスのストラスブールの貴族の家に生まれた。八歳の時、父母と死別。父の妹である叔母の家に引き取られた。従妹のマリーは八歳年上で、やがてシャルルはマリーに深い愛を抱くが、マリーはシャルルの十六歳の時、ド・ボンディ夫人となる。
シャルルは軍人としての教育を受けるが、二十歳で祖父が死去すると、財産を相続して自由に使える身となった。マリーを失った自暴自棄的な気分もあったのかシャルルは信仰を失い、女と食道楽に耽り、体に合う軍服がないほどの肥満体になったという。1881年アルジェリアの戦闘に参加した時、怪しげなミミという女性をド・フーコー夫人と偽って同行し、まもなくそれがばれて、「軍を取るか、女を取るか」と迫られると、シャルルはあっさりと「女を取ります」と言って軍を追われるのである。
しかしまもなくシャルルは女とも放埓な生活とも別れ、アラビア語を学び、コーランを読み、信仰について考えるようになった。すべての関心が、以後の生涯をかけた生活と結ばれていたのだ。

第一楽章のモチーフはマリーへの深い愛からの信仰の生活なのだろうか。

そして第一楽章のモチーフが最終楽章まで続くように、信仰は生涯続くものとなる。

やがてフランスにもどったシャルルは心密かに想い続けていたマリーに再会した。マリーの説得で罪を告白し、聖体を受け、彼は激しく神に呼び戻された自分に気がつく。二十八歳の時である。
1890年、三十二歳の時、俗世における最後の晩をマリーの足元に座って過ごした後、シャルルはトラピストの修道院に入った。
1970年司祭の叙階されるとまもなく、シャルルは再びアルジェリアに渡った。
1916年までの約十五年間、三度フランスに戻った以外、シャルルはアルジェリアのタマンラセットの山地にこもって、周囲の原住民たちの改宗を試みようとしたが、全くと言っていいほど効果はなかった。
1916年、過激派のシヌシ教徒の襲撃を受けた時、十五歳の少年によってシャルル・ド・フーコーは射殺された。足元には、遺言でマリーに残すことを明記した聖書が落ちていた。
1903年、シャルルはまだ充分に若い四十五歳であった。私たちの常識から言えば、前途の長い壮年期の真っ只中にあるのだが、既に彼は次のように書いているのである。
「自分が年を取り、坂を下るのを見るのは、申し分のない歓びです。それは私たちには良い解消の始めですから」

人生の坂の下りがすでに見えていた。

それは自分のマリーを愛する気持ちを解消するには良いことだという。

死の一年前1915年の夏、シャルルは生涯、現世では会うことを避けたまま愛し続けたマリーに書く。
「タマンラセットでミサを上げて十年になります。でもたった一人の改宗者もいません」
シャルルの生涯は、現世の常識で言うと全くの失敗者だった。死の当日、彼は再びマリーに宛てて書いた。
「苦しんでいるのを感じます。愛していることを、いつも感じるわけではありません。これはより大きな苦しみです」
この愛はマリーに対するものではない。神父として土地の人に向けられるべき愛が上手くいかないことにシャルルは苦しむのである。
その人間としての素顔を死の当日まで正視しつづけたのがシャルルの勇気であり、それが人間としての完成への道であった。

シャルルは信仰をもって

苦しんでいる自分を正視し続けていたことで

人間としての最終章に近づいていた

人間として完成の道へとつながっていた。


目的の現地の住民の改宗もできないまま

日々そのことに苦しんでいた。


また自分自身が

現地の住民のことを愛していると感じることが

いつもではないことにも

自責の念があった。

しかし

銃撃されてしまった。

けれども

その運命さえ

受け入れるつもりだった。


死を覚悟していたので

遺書も書いていた。


余韻が静かに鳴り響く人生とは

どんな人生なのか。


その余韻とは

他の人が

人の人生から

聴こうとしなければ

聞くことはできないもの。


そうなると

余韻とは

いったい何であろうか。


自分で

余韻を響かせようとしてもできない。

それは

聴き取る人と共鳴した時のみ

響くものだから

いや

自分自身の中で

鳴り響く余韻なら

自分だけで

響いているのを

ずっと

聴いていることができる。

そのほうがいい。







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