曽野綾子『魂の自由人』「順境は悪徳をあらわす」
プラトンの『国家』には数章にわたって
正義とは不正とは何かを論じており、・・・
正義と不正は時には同じ究極か終結を目ざす瞬間があるように思えて、快い酩酊を覚えるのである。
つまり、この世でまちがいない、と信じこんでいるものの論理的構造が、プラトンによって上下左右にゆさぶられ、我々が弄んでいた単純な道徳観など児戯に等しい幼児的な構造ではないか、という気がして来る。
何が正義であり何が不正であるのかは
その時の状況に応じて変化するのものであり
明確に分けて考えることなどできないというのだ。
・・・
日本の自殺者が年間三万人を超えるという。
私たちが、自殺した人がどのような理由で死を選んだか知らないし、何よりしてはいけないことは、他人がその理由を憶測して決めることである。
しかし、飢餓や、一分一分が生きるか死ぬかの境目にいるという戦闘の中では、人は自殺することなど選ばないように見える。
1985年エチオピアの旱魃の時、私は難民キャンプで何千人という餓死線上をさまよっている人々を見た。
そんな中で私が一例も耳にしなかったのは自殺の話である。
大人も子供も、自殺してもおかしくないほどのお先真暗な生活に見える中で、人々が考えていたのは、今夜食べる何かを手に入れること、つまり生きることであった。
・・・
フランシス・ベーコンはその『随筆集』の中で書いている。
「順境の美徳は節度である。逆境の美徳は忍耐である。」
「順境には多くの恐れと不愉快がなくはない。
そして、逆境に喜びと希望がなくはない」
「順境は悪徳をいちばんよくあらわすが、逆境は美徳をいちばんよくあらわすものなのである」
つまり日本人を自殺に追いやる一因は、順境なのである。
その人が病気だろうが、受験に失敗しようが、・・・失職しようが、それでも日本人は社会的「順境」の中にいるのである。
これはまさに個人的に強靭な人間性を要求する最悪の状況にいるということだ。
順境には、多くの恐れと不愉快が存在し、悪徳がはびこり、苦しい状況しか見えなくなる。
逆境には、その中でも喜びと希望が見いだせ、美徳が煌めき輝いて見える。
そして
日本は順境に中にあり
その中で悪徳ではなく美徳を見つけ出し
喜びと希望を見出すためには
個人的に強靭な人間性が必要となるというのだ。
なんと矛盾している人間社会なのだろうか。
私の子ども時代には、多くの青年たちが徴兵されて、大東亜戦争に参加した。
多くの若者たちが戦うべきだと信じ、その結果戦死した。
戦争という逆境の中では
光り輝く信じるものが見えるからこそ
一丸となって戦い
そして死んでいったのだ。
死ぬことで大切なものが守れると信じていたからだ。
死ぬのも生き残るのも運としか言いようがなかった。
帰りのガソリンの入っていない特攻機に乗って出撃命令を待っているうちに、「出番」が来ないまま終戦を迎えた人もいる。
いちはやく軽傷を負った人は運が悪いように見えたが、そのおかげで原隊が全滅しても生き残った。
こうした話はいくらでもあった。
生き残った人々は、自分はあの時死んだのであって、今こうして生きているのは夢幻(ゆめまぼろし)だと思った。
余生という言葉を最も鮮やかに実感したのも、彼らであった。
生きるか死ぬかが運任せであった時には
生き残った者は
その時に死んだと思って
その余生を夢か幻のように感じて生きたというのだ。
日本人だけが自殺するのではない。
このタイのワニ園でも、毎年ワニに食われるという、日本人には考えられない方途で自殺を図る人がいるという。
人間は自らの命を絶つ自由を持っているが、
死ぬほどの決意ができるなら、
一度死んだと思って
「地獄の生活」を味わうことこそ本道ではないか、
と凡庸な私は思うのである。
死ななければ解決しない、
と思うのもやはり心が囚われている証拠で、
魂の自由人になるには、
地獄の生活を承認することが
一つの条件であろう。
死ぬしかないと考えてしまうのには脳機能が不全であることがある。
その時には
専門家の助けが必要だと思う。
・・・
考え方として
自分を過剰に守るプライドという枠を取り外して
自分を一度諦めてみることも必要だと思う。
自分を投げ出して初めて
自分を受け入れ
どうにか生きることができるようにもなる。
凡庸な一人の人間として
生きることができれば
人生は成功だと思う。
それこそ魂の自由人。
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