曽野綾子『魂の自由人』「捨てられた者の幸福」
曽野綾子は「家庭画報」に2000年に『魂の自由人』という題で書き始めた時に連載2回目で表現の自由に制限がかかり、全責任は署名して書く自分にあるといっても原稿は通らず、連載を中断するより仕方がなかったというのだ。
戦後のマスコミは、言語の自由を守ったどころではなかった。この手の言語干渉と弾圧を、ずっと続けて来たのである。その点では戦争中の大本営発表を垂れ流した日本の多くの新聞の妥協的姿勢は、戦後も本質においては変わっていないのである。
とにかく責任を問われたくはないという姿勢はよく見られる。
硬直した組織、誰も責任を持ちたくない組織、仕事が時間的に終了できればいいと考えている組織は思考が停止するのだ。
話し合おうとする意志はなく、結論は持論しか認めない、もしくは結論すら真剣には考えてもいない。
思考停止の目的は自分自身を守ることだけにある。
私はカトリック教徒で一神教なのだが、「捨てる神あれば、拾う神あり」という神道的日本語の表現は実に多くの場合に当てはまると思うことが多い。今回も私は「連載が切れてしまったなあ」と思いながら、じっと何もしないでいたのである。すると偶然のように「小説宝石」に編集部に拾われた。
考えてみれば、運命に流される、ということが私にとっては非常に重大なことであった。それは努力して運命の流れに逆らうという一見正反対の姿勢とほとんど同じくらいの重大さで人生にかかわってくる。そしてこの二つの行為は決して矛盾していない。
運命に流されてじっとしていることと、努力して運命に逆らうことは矛盾していないという。
理不尽なことにおいて、じっと何もしないことであえて反論しないことで、同じ土俵に立つことさえ拒否し、さらに別の運命の道が巡ってくるということと
理不尽さにおいて反論するという努力をすることが
実は、同じ理不尽に対抗するものとなるというのだ。
もし自分の努力が必ず実る、ということになったら、人生は恐ろしく薄っぺらなものになるだろう。うまく行ったら、私は途方もなく思い上がり、失敗したらまさに破滅しそうなほど自分を責めるかもしれない。努力と結果が結びつかない、というところに、救いがあるのだし、言い訳も成り立つのである。因果関係は必ずしもはっきりしない、というところで、世界はようやくふくよかなものになったのだ。
どうにもならない運命があると受け入れることで救いがある。
しかし、そう思えない人がよくいる。こういう人たちは、良くなった場合はすべて自分の能力の結果だと信じ込む。反対に悪い結果になった時には、誰それが、政府が、教育委員会が、担任の教師が、母親が悪いからだ、と思うのである。ほんとうは、右(上)にあげたような原因は、現代の日本においては、すべて逃れようと思えば逃れられることばかりで、おそらく悪い結果をもたらした最大の責任者は自分なのである。
子どもに対してはどうにもならない環境というものもあるけれども、それでも本人が努力し続けることで成功することもある。
何をもって成功とするのかも主観的なことであるから、自分自身が納得できていればいいのだ。
けれども、自分以外のものばかりに責任を押し付け、自分に対する健全な批判がなくなると、経験から学ぶことができなくなり不幸なことしか見えなくなる。
しかし、誰もが見て納得のいく理由などというものは、初めからこの世にないことが多い。世間は多分にでたらめなのだ。また複雑な真理ほど、ほとんど理解されない。
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そういうことを言う人は、正当なことを言う割には判断が人間的でもなく、おもしろくもない。
誰もが納得できることなんて存在しない。
そういうことを理由にしてくること自体、思考が停止している何も変えようとはしない人となる。
人間的な対応ができるはずもない。
そういう時には、別の人間にも対応してもらうように、多くの人を巻き込むことが必要となる。
あるいは、他の方法があるかもしれない。
その人の論理をとりながらも、こちらの希望が叶う方法を取ることも一つのやり方だ。
あるいは、
まったく別の論理がはたらくところに行けばいいのだ。
とにかく魂の自由を得るためにはいささかの操作の蓄積がいる、それを私は考えてみたい、と思ったのである。
「魂の自由人」という生き方に引き込まれていく。