曽野綾子『自分の始末』「贈られた眼の記録」
私にはもう一生透明な世界がないのだろうか。
澄んだ明瞭な形というものはいったいどういうものだったのだろう。
考えてごらん、と私は自分に命じた。
私はもう五十年間も、一応この世というものを見て知って、記憶にあるのだから、今現実に目に見えるものがぐちゃぐちゃだからと言って悲観することはない。
適当に補って、自分の世界を構築すればいいではないか。
私は小説書きではなかったのか。
小説家なら、「根も葉もある嘘」をつくのが上手になっている筈だ。
不明瞭なものを明瞭にすることくらい、お手のものではないか。
曽野綾子さんは
眼の手術を受けてから
視力が以前よりも良くなったせいで
見えるものの刺激が多すぎて
鬱のようになってしまったという。
それまでよく見えていない世界から
何もかもが見える世界となった時には
その急激な変化が堪えるのだ。
さらには
よく物事が見える人にとっては
苦しいほどに
ぐちゃぐちゃの世界が見える。
よく見えない時の
自分が思っていた透明な世界は
澄んだ明瞭な形というものは
どこに行ってしまったのだろう。
しかし
悲観することなく
小説家なのだから
適当に自分の世界を自分の中で
作り上げればいいのだ。
小説家でなくとも
現実を適当に補い
自分が納得できるように
自分を守るように
自分が生きていけるように
出来事や思いや理屈を
自分の中で
再構築しているものだと思う。
そうでなければ
生きることは
大変だからだ。
それでいいんだ。
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