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曽野綾子『自分の始末』「中年以後」

お金は使うためにある。

そんな分かり切ったことを、本当は言わなくていいはずなのだけれど、なぜか溜めるのが趣味みたいな人があちこちいる。
溜めるということは単純に体にもよくない。

呼吸という運動の中で、空気を吐き出せなくなると、それも一つの病気である。

食べたものが出なくなると、それは便秘で腸癌の原因にもなる。

お金をうまく使うことができなくなると、毒が廻って守銭奴になり下がる。

お金は使うことが健全なのだ。

しかし

何にどう使うのが健全だと、

まともに言えないところがむずかしいのである。

子ども達がまだ小さかった時

休みにはいろいろなところに遊びに行った。

その時自動販売機で飲み物を買ったら

「それだから、うちは貯金ができないんだ。」

と言ってきた。

だから、

事前にスーパーで安いジュースを買うようにし

または

水筒にお茶を入れていくようにした。

飲みたいときのジュースはぬるくなり

水筒はそれ自体が重くて

走りまわる子どもに追いつくのに邪魔だった。


心の中では

(ジュースくらい買って飲ませてくれ)と思っていたのだ。

その心のせめぎ合いが自分を苦しめた。

水筒を

自分ではなく言った本人に持たせればよかったとも思った。


おもちゃを買うと

また言われた。


私はその時の子ども達の楽しい時間を大切にしたかった。

二度と戻らない時間への投資だった。

遊びも教育も投資なのだ。


お金を貯めること自体が

目的である人とは理解し合えないと思った。


その人はと言えば

あっという間になくなるギャンブルはするというのに。

ジュースどころの出費ではない金額だった。

二桁違う。

どうしてなのだろうか。

人が物を買うと

眉をしかめていた。


構わずに買った。

必要だったから。


お金を貯めることではないお金の使い方。

何にどう使うのかは

人によって

時によって

違うのだろう。


守銭奴はお金を使うことを考えてはいない。


どう生かすかが問題なのだ。


どう生かされるのかが見えないのだろう。

その時その時を楽しんで生きていない人にとっては。

生きる目的は自分で見つけないと見えてこない。

それを人のせいにするのは

もはや自分自身を生きてはいない。


嫌な気持ちを思い出してしまった。

でも大丈夫。

私は自分を生きている。




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