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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「はらわたする」

曽野綾子が「尊厳死」についての講演をすることとなった時

私は「尊厳死」どころか、貧しさの中で「尊厳生」すら確立していないことを知っているので、尊厳死どころではない、と思うのである。

だからまず尊厳生を確立すれば、尊厳死は自然に与えられるような気がしたのである。

尊厳を持って生きることこそ

尊厳を持って死ぬことができる。

どんな状態でも一日でも長く生かしてもらいたい、と当人も言い、親族も望む人もいる。

夫と私は、或る人の生というものは、その人らしさが心身共に残っている場合で、ことに知的活動が再生不能と言われる状態にまで失われた場合には、その人を長く生かすようなことは残酷なような気がしている。

過剰な延命処置は残酷なことなのだ。

ただ最近ヨーロッパなどでかなり現実的に使われるようになった安楽死をさせてくれる一種の病院のようなところに病人を引き渡すことには、どうしても違和感がある。

安楽死にも疑問がある。

安易な安楽死は論外だ。

もはや耐えがたいほどの苦痛から解放されるには、それ以外の方法はないとい想う場合もあるだろう。

しかし、私は死に介入することは望まない。

死の時は、神か仏か、とにかく人間ではない存在の手に委ねたい。

だから私が望むのは、何が何でも心臓を動かし続けるという手の処理だけはしないでほしい、ということなのである。

自然死が望ましいのだ。

その判定をするのは、人が食べなくなった時だと思えばいいだろう。

自然に死に向かう時には食欲もなくなってく。

食欲や消化する機能もだんだんとなくなっていくのだ。

それほどに人間を生かすために基本的に必要な食欲というものさえなくなって、食べろと言われること自体が実に辛い、と病人が言うようになったら、それはもう自らが生を拒否している状態である。

生命が自然の尽きていい時なのだ、と解釈してもいいだろう。

自然死は辛くないと聞く。

・・・

インドのガンジス川での死者を火葬するとき、遺族たちがたくさんの薪を買う。

貧しい人たちは薪をギリギリしか買えないので十分に火葬することができないという。その中での日焼けした痩せた婦人が友達のために大振りの薪を一本担いでいた。

その慎ましい善意の表情が曽野綾子さんの眼に焼き付いているという。

・・・

『福音宣教』というカトリックの雑誌で、埼玉教区終身助祭の矢吹貞人師が「最期の感謝の捧げもの」というエッセイを書いている。

師の二人の和尚さんに当たるカトリックの神父たちのそれぞれの見事な最後を書いた文章である。
師はそのエッセイの中で、フィリピンで長い間土地の人々と共に暮らしたN神父について書いている。
明るく豪放に見えるN神父を私も知っていたが、神父は最後の発作の後、

「僕は長生きするために神父になったんじゃない。仕えられるためじゃなく、仕えるために神父になったんだ」と言って、

恐らくそれが日本への最後の帰国となるだろうと思われる機会を自ら見送った。

フィリピンで死ぬためであった。

信念をもって生き、そして死んで行くことには尊厳がある。

・・・

『ルカによる福音書』(10・30~)

「よきサマリア人の物語」

神が「隣人を自分のように愛しなさい」と命じたのに対して、イエスの揚げ足を取ろうとする律法学者たちが「隣人とは誰か」という質問を発してイエスを試そうとする場面である。


当時、ユダヤ社会から見てサマリア人たちというのは、エルサレムの神殿とは別のゲリジムの山頂の神を拝む異教徒、異邦人として扱われていた。

しかし物語は一人の旅人が追剥に遭った話を紹介する。
盗賊たちに傷を負わされた旅人に対して、そこを通りかかった祭司とレビ人は、どちらも、見て見ぬフリをして通ってしまった。

傷口の血に触れて穢れを受ける面倒を避けたのである。

祭司もレビ人も、ユダヤ教の宗教的指導者なのだが、彼らは何一つ人を助けるということをしなかったのに対して、

ユダヤ人から疎外されていたサマリア人がそこを通りかかり、
傷を負った人を「憐(あわ)れに思い」手当をし、
ロバに乗せて宿屋に運び、
その宿賃まで払って帰って行った。
イエスはその話を引き合いに出して、「三人の中で誰がほんとうの隣人だったか」と聞いている。

するとさすがの律法学者たちも、「その人を助けた人です」と答えざるを得ない。

つまりユダヤ人から見て、蔑まれて差別されていたサマリア人の方が、真に温かい心を持っていたというのである。
この時サマリア人は、傷を負って倒れていた人が、いつも自分達を差別していた思い上がったユダヤ人であるにもかかわらず、「憐れに思った」のである。
この「憐れに思う」という言葉のギリシャ語としては
「スプランクニゾマイ」
という言葉が使われていることに矢吹師は触れている。
この動詞はスプランクノン=内臓という言葉から来たものである。

つまり、当時、情は、ハートからではなく、
内臓(もっと正確に言うと横隔膜)から出るものだと思われていたのだ。
そしてこのギリシャ語原語に対して

神学者として有名な佐久間彪神父は
「はらわたする」
という豪快な訳語を当てていたという。
つまり、
本当の憐れみというものは、
ある人のはらわたの底から絞り出されるようなものだ
ということであろう。
人間としての生涯を完成するのは、

この「はらわたする」思いを持つことであり、
持たれることではないか、

と私も思う。
利己的な人や、
他人の対してそれほどの深い強烈な思いを持たない人は、
自分がその対象になることもないだろう。

自分から「はらわたすること」がない人は

人からも「はらわたされること」もない。

もし人がその死までに、
この世の一人からでも「はらわたされる」ことがあったら、

その人は、「死んで死に切れる」のだと私は思う。

それに対して魂の出会いなしに死ぬことほど寂しいことはない。

「はらわたすること」で「はらわたされる」機会がある。

そして

その機会があったならば

それは素晴らしい奇蹟のような機会だということだ。

人間としての完成形に近づいていると言える。

それこそ、
この「はらわたし」「はらわたされる」ことこそ、
尊厳生なのである。
そして尊厳生ができた時、

自然に尊厳死も可能になる、

と私は信じているのである。

一日一日

懸命に生きる。


できれば

尊厳生となるように

努める。


そして

尊厳死は

尊厳生とセットとなってやってくる

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