サマセット・モーム『サミング・アップ』医者の経験
サマセット・モームは父が在仏英国大使館の顧問弁護士であったため、フランスのパリで生まれた。両親ともに幼い時に亡くしたため、イギリスの牧師夫妻に育てられた。少年時代はフランス訛りの英語と吃音のために辛い思いをした。十八の時に、束縛されない自由を求めてケンブリッジ大学に入ることよりも、あれこれ相談した結果、医者になることとなった。
医者という職業には興味が持てなかった。それでもお陰でロンドンで暮らす機会が得られ、渇望していた人生経験が味わえた。一八九二年秋に聖トマス病院に入った。最初の二年間の勉強はとても退屈だったので、試験に落ちなければいいという程度の勉強しかしなかった。学生としては不真面目だったが、憧れていた自由が得られた。自分ひとりでいられる部屋を持てて嬉しかった。部屋をきれいにし、快適にしつらえて得意になった。暇な時間と、本来なら医学の勉強に費やすべき時間も、全て読書と執筆に用いた。ずいぶんたくさんの本を読んだ。ノートに物語や劇のための着想とか会話の断片とか、それから、読書や様々な経験から学んだことについての感想ーとても無邪気な感想だったーなどをどんどん書き記した。他のことで忙しく、病院での生活にはほとんど参加せず、ほとんど誰とも友人にならないでいた。
しかし、
二年経て外来部の助手になると、急に興味が湧いてきた。そしてしばらくして病室で働くようになると、ますます興味が深まり、あるとき腐敗が極度に進んだ遺体の解剖に加わって腐敗性扁桃腺炎に罹り、床に就いたときなど、仕事に戻りたくて治るのを待つのがもどかしいほどだった。
免許を取るために、所定の回数分娩に立ち会わなければならなかった。
それで、
ランベス地区の貧民街、
それも警官でも躊躇するような危険な路地まで
入っていくことになったけれども、
手にした黒カバンが身を充分に守ってくれた。
この仕事は興味が尽きなかった。
短期間だったが、急患担当となり夜昼問わず緊急患者に
応急手当をしたこともある。
くたくたになったが、心は高揚していた。
高揚するほどに熱中できるものを見つけることができることこそ
幸せを感じることはない。
危険な路地に入る時には、手にした黒カバンが身を充分に守ってくれたという。
黒カバンとは、医者が持つあの口が大きく開くドクターズバックだ。
一目で医者だと分かる。
というのは、ここで、私は自分に最も不足していたもの、つまり、生の人間との接触が出来たからである。あの三年間に、人間がいだきうる、ほとんどあらゆる感情を目撃できたと信じている。それが劇作家としての私の興味をそそったし、いまだに何人かの患者のことははっきりと記憶しているので、描いてみろと言われれば、絵が描けるくらいだ。当時耳にした言葉の端ばしが今でも耳の奥に残っている。
人の死に様を見た。
人がいかに苦痛に耐えるかを見た。
希望、恐怖、安堵がどういうものかを見た。
絶望のあまり顔に暗い皴が刻まれるのを見た。
勇気と確信も見た。
私には幻想としか見えぬものを信じきって、目を輝かせるのを見た。
心に浮かぶ恐怖を周囲に見せたくないという自負心から
死の宣告を聞いても顔色一つ変えず、
皮肉な冗談を飛ばして雄々しく耐えている姿も見た。
真実を描くほど心を揺さぶるものはない。
映画でも本当にあった話であるほどに魅力があるものとなる。
ほんとうの人間とはどういうものであるのかを
事細かく観察し経験したからこそ
理解できる境地というものがある。
その経験をしたモームであるので奥深い話を書くことができた。
現実は想像をはるかに上回るのだ。
・・・
わたし自身は実際にこの目で見たことをノートの書きつけていた。それも一度や二度ではなく、十度くらい書いた。私は苦悩が人を気高くなどしないことをはっきりと知った。
苦悩は人を我儘にし、卑劣し、ケチにし、疑り深くする。些細なことに拘るようにさせる。苦悩は人を本来の性質より良くはしない。悪くさせるのだ。私は人が諦めを知るのは、自分自身の苦悩によってではなく、他人の苦悩によってである、と確信を持って書いた。
自分が苦悩のただ中にいる時には
ただ苦悩にのた打ち回るだけしかできない。
そして
苦悩が和らぐのを待つことしかできない。
ただ耐えるだけだ。
その後
落ち着いてから
その苦悩に意義を持たせるために
あの苦悩があったからこそ
今の私があると思わせるのだ。
自分を存在させる防衛反応とも言える。
・・・
冷静に
苦悩について考えることができるのは
実際には
他人の苦悩についてである。
・・・
認めたくはないけれども
おそらく
それは
真実なのだろう。
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