曽野綾子『魂の自由人』「再会した母子」
1981年、三歳のマシューはタイのパタヤ孤児院にいた。母が彼を置き去りにして行ったからである。
マシューはパタヤの「子ども家」からハリエットとダニー・スコット夫妻に貰われた。
マシューのタイ名はカラム・アパイヤコートである。
1997年に海兵隊を志した時、彼の心の中にはいささかの下心があった。
海兵隊は、毎年、東南アジアで最大規模の「コブラ・ゴールド」という合同演習を行う。
もし、海兵隊にいれば、この演習の時にタイに行き、そこで生みの母に会えるかもしれない、と思ったからである。
そして多くの人の尽力もあって、マシューは母親と再会する。
「母はしなければならなかったことを、しなければならなかっただけです」と息子は語った。
母親に対する恨みではなく、当時の母親の気持ちをただ理解しようとするということを言っている。
「私はよくわかっています。私はただ、母が私に会えることが嬉しいだけです」
私が母親に会えるのではなく、母親がわたしに会えることが嬉しいという。
冷静であり、理性的な知性が見えてくる言葉。
おそらくこのインタビューは、英語で行われたのだろう。そして私はその答えをあえて直訳した。こうした言い回しは日本語にはない。もしかすると、こういう考え方も日本人はないかもしれない。日本人が考えるとこうなる。
「母はそうする他なかったのです。私にはよくわかっています。私はただ、母が会ってくれて嬉しいだけです」
いい訳文とはこう書くのだろう。
しかし、英語というものは、どこかに表現だけでなく、その底にある思想も違うように思う。
しかし実の父母を知りたいという願いは、それが叶わなかった人にとっては、実に強いものらしい。・・・誰も自分の存在を縦軸で確かめたいのである。・・・自分がどこで生まれたのか、誰の子供なのか・・・
・・・
人生の横軸とは、自分が今どんなところに住んでいて、どこにあるどんな職場で生きているかということ。つまり、現在の自分を取り巻く環境ということだろう。
私が思うに自由人というのは、先に書いた人生の縦軸と横軸の間に端正に自分を置き、自分ではどうにもならないその先天的な特性(位置づけ)をしっかりと目を見開いて確認する勇気を持つ人のことである。
もちろん誰の心の中にも、面倒は避けたい、という気持ちはある。
しかし、自分の不都合な過去や人間的しがらみや社会的な状況はどうにも避けられないことなのだ。
それの承認できない人は、現実を逃避しているという形でやはり囚われている人なのである。
自分の立ち位置を
自分で確認し
それに対して受け身でなく逃避することもなく
向き合っているということが
自由人であるというのだ。
在る国の国民として生まれる、ということも大きな横軸の要素である。
日本には、愛国心を悪いことのように言う人がいる。
しかし、私はここ二十年ほど、世界で貧困に苦しむ国々を歩いてみて、愛国心というのは、鍋窯並の、生きるための生活必需品だと思うようになった。
戦争もない現代の日本に生まれてきたことは、本当に幸運なのだ。
・貧しいアフリカの国々では人々は教育も受けられず、医療制度の恩恵を受けることもできず、職もない。
・救急車は金を払わなければ病人もけが人も運ばない。
・病院には点滴の設備やレントゲンの設備さえないものも珍しくはない。
・働こうというスローガンを掲げていても広い範囲で工場一つない。
・ひどい旱魃に見舞われ人々は餓死しかけていたこともある。
・水は慢性的に不足していた。
・生活用水を片道一キロ二キロかけて運ぶこともあった。
・ひどい土地では牛のおしっこで顔を洗うという。
・多くの国で農業技術は日本の縄文時代より遅れていた。
(今から20年ほど前に書かれたものなので、アフリカの現状は変わってきているとは思う。)
そういう国を見ると、私などは心密かに、こんなものは「愛する国に値する国ではない」と思いそうになる。
ましてや大統領が大きな権力を握り、一家眷属(けんぞく・血の繋がっている一族)で富や権益や要職を占領しているというような話を聞くと、腹立たしい思いを禁じ得ない。
それでも人は国家に頼らざるを得ない。
今晩飢えずに寝床に着けるかどうかを決定するのは、やはり国の力なのである。
失業を失くし、農業、漁業、畜産業、林業など、その国に合った産業を成り立たせ、産品を商品として売ることの可能なインフラ、外交政策、国防力を持つことなのだ。
そうでなければ、個人としてまずは生きてはいけないのである。
それらを可能にするために、その人が属する社会の構成要員は団結して生きられるような力を示す他はない。
国か、部族かが、自分を守ってくれずに生きている人は世界中にいないのだ。
だから、愛国心というものは、持つのが妥当か、どんな形の愛国心が平和的か、などと議論すべきことではなく、持たなければ生きていけないものだ、と私は教えられたのである。
このエッセイの題から、「自由人」というものは、他人にも、家庭にも、社会にも、国家にも何にも拘束されない人のことだと、考えている人がいるとしたら、私はむしろ反対のことを言っているように見えるだろう。
しかし、すべての人は幽霊ではないのだから、横軸と縦軸のクロスした地点で生きている。
それはその人固有の現実を有するということである。
そうした現実を正視する体力・気力・知力がなかったら、出発点の足固めもできないということになり、その人は、とうてい自由人になることはできないのである。
自由人となるためには
自分自身で
生きる覚悟を持つことが必要なのだ。
覚悟がある時
すべてのことが
自分での選択として受け止められるようになり
そこで初めて
自由人となることができるのだ。
向かい風の方を向いて
しっかりと立っている。
微笑んでさえ見える。
それが光とともにある
自由人。
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